23


「お疲れ」


最後の戸締りを終え、部室前で玲央と小太郎と別れる。校門ではなく教室へ向かう僕を見送る二人が何か言いたげだったことに気付いていながらあえて触れず踵を返す。部活中特に目につかなかったが、昨日の件は玲央の耳にも入っているらしい。昼休みの小太郎の口ぶりからも予想できていたので特に驚くことはなかった。二人の視線が背中に刺さり居心地の悪さを覚えるが、かと言って彼らに告げる言葉はなかった。
遠ざかる背後の足音とともにその不快感は消え、僕は部室棟から一番近い入り口から校舎内に足を踏み入れた。吹きさらしの屋外より体感温度はいくらかマシだ。しかしこの先冬になれば気温はますます下がるだろう。放課後教室の暖房は部活や委員会でもない限り入ることはない。中学の頃は保健室を借りることもあったが、ここではそう簡単に居座らせてはもらえないだろうことはこれまでの校医とのやりとりで感じ取っていた。
一人分の足音だけが響く。廊下の電気は消え、教室の照明もほとんどない。静まり返った校内は思考を巡らすにはうってつけのシチュエーションだった。自然と視線はリノリウムの床に下がり、反射するわずかな蛍光灯の光をたどるように足を進ませていく。
冬の間だけ先に帰らせるか。その選択肢は当然あった。寒いから先に帰っていな、と彼女に伝えることは簡単だ。彼女は間違いなくわかったと頷くだろう。僕らの習慣は滞りなく取りやめになり、きっと一日で一度もと顔を合わせない日が多くなる。そんなことは去年の部活を引退したあとも経験済みだ。痛くもかゆくもない。

だが春になって、僕らはこの習慣を復活させることができるだろうか。

階段を三階分上がると一年生の階に到着する。左に向けば一番奥の教室にだけ明かりがついている。自分の顔に少しも力が入っていないのを自覚しながら、進行方向へ足を踏み出した。
一度なくなった習慣が、高校に入って復活したのは環境が変わったからだ。学校が変わり、住む家が変わり、通学路が変わり、部活が始まった。大きなきっかけがあったのだ。そうでもなければ一度なくした習慣が、一度離れた距離が、そう簡単に戻ることはないのではないか。可能かもしれない。案外簡単なことかもしれない。しかし絶対と言い切れなかった。僕とが脆い橋の上に立っている感覚には覚えがあった。すぐ隣にいる彼女に口を開くが何も言えない。そう、この感覚は、いつものことだ。

驚くほど僕は、に対し適当な言葉を持っていなかった。

明かりのついた教室の扉の前に立ち、指を引っ掛け横にスライドさせる。教室の中央に位置する席に一人座る彼女が見える。よほど本を読むのに集中していたのか、はその音でようやく振り向いたようだった。「お疲れさま」頬を緩め労いの言葉をかけるにありがとうと返す。立ち上がりながら開いているページに栞を挟み、机の脇に提げられていたスクールバッグに文庫本をしまう。そのままバッグを肩にかけ、教室の明かりを消してからこちらに駆け寄ってくる。「おまたせ」へにゃりと笑う彼女につられるようにふっと口角が上がった。随分と久しぶりに表情筋を動かした気分だった。


「寒くなかったかい」
「全然平気だよ。わたしこそ、練習で疲れてるのに四階まで上がってきてもらっちゃって、ごめんね」
「このくらい何てことないよ。さ、帰ろう」
「うん!」


いつもなら先ほど入ってきた校舎の入り口に呼び出すところを、今日は迎えに来たのだ。どう考えても効率の悪いことをしている自覚はあったが、今日ばかりは大目に見てほしかった。にではない、周囲の人間にだ。
廊下は来たときと同じくしんと静まり返っていた。ここに来るまでに明かりのついた教室の前を通らないルートを確認した。元々この時間で誰かがいるというのもなかなか珍しいため、誰の目にも入らず外まで出ることはさほど難しくなかった。


「こういうのもたまにはいいかと思ってね」


隣の彼女にそう言うと、は目を一度瞬かせたあと、じんわりと両頬を赤らめて笑った。

そんなつもりではなかったが、ご機嫌取りのように見えたかもしれない。これから切り出す話は、彼女を傷つけるだろう。繋ごうと伸ばしかけた手を止め、身体の横へ戻す。隣のは気付いてない様子で正面を向いて歩いていた。
僕がこのまま何も言わなければ、も嫌な出来事として封印する。僕たちが現状維持を貫くならそうした方がいいのかもしれない。波風を立てない方が正しい。けれど僕は、僕との間にできたわだかまりを放置しておく自分が許せなかった。


、昨日小太郎といたんだってね」
「…! あ、うん…」


世間話で終わる話じゃないとわかったのだろう、は僕の声が続く前に遮った。


「でも全然大丈夫だよ!」


背筋を伸ばし僕を見上げる。その目には動揺が見て取れた。僕に謝らせまいとしているのだ。小学生の記憶がフラッシュバックする。「……、」呼吸に痛みが伴った。続けようとしていた言葉が飛び、の声を聞くことしかできなくなる。


「征十郎くんの近くにこんな奴がいるのは、周りの人から見たら腹が立つよ…。それでわたしが怒られないように、征十郎くんは距離を取ってくれてるんだよね」


「わかってるから、征十郎くんは悪くないよ…」目を逸らし俯く彼女。そうはわかっている。現状をしっかり把握できている。昨日話した書記のように勘違いをすることなく、余程まともな判断能力を持っていた。僕は彼女が下す判断について、ただ一点を除いては肯定することができた。


「いつも近くにいれなくても、見えるところにいられれば…」


の声は震えていた。顔を見なくてもわかる。

それは、「赤司征十郎」の気持ちと一致していた。堂々と近くにいることが叶わなくてもそばにいてくれればよかった。彼女を感じられる距離感ならそれ以上を望まなかった。人には虚勢を張り彼女を自分のものだと宣言するくせに、に対しては適当な言葉を見つけることすら困難な僕の、いいや「僕ら」の、ささやかな願いだった。

僕は、己が何者なのかわかっている。


「だから、征十郎くんは謝る必要なんて、全然ないんだよ…」


かろうじて僕を見るの目が潤んでいる。


「…ありがとう」


罪悪感を誤魔化した謝意の言葉じゃ何も伝わらない。伝えたいことを口にできない僕とは一緒になれない。
破滅の音は、ともすれば耳元で鳴り響いていた。


ちゃんのこと、こだわってあげてね…」でも桃井、僕がこだわってもが悲しむんじゃ意味がないんだ。はきっと嫌と言わない。僕が君と同じ高校に行けと言ったら頷くだろう。

「…はそんなこと思ってないと思うっスけど。信じてないんスか?」涼太に嘘は言っていない。本当には自らついてきてくれると思っていた。しかしそれが正しい判断だと、肯定してあげることが未だにできていない。

がこんな目に遭うのは赤司のせいじゃねーの?」小太郎の言うことは的を射ている。わかっていながら、欲深い僕は、手離す決断を下すことがまだできないのだ。


「わたし征十郎くんの為に何かしたいっていつも思ってるから、いいんだよ」 僕らのはまだそばで笑いかけてくれる。


top