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定期テストにかこつけて必要な勉強道具の整理を行っているとそれは目に入ってきた。無色透明のクリアファイルに挟まった一枚のプリント。見るからに固い内容が書いてありそうな紙を目にした瞬間こそわからなかったけれど、一番上に印字された標題からすぐに思い当たった。整理整頓のやる気は一気に方向転換し物思いにふけりたくなったわたしは、クリアファイルから取り出さず、手にしたまま勉強イスに腰掛けた。

(…転入に関する手続きについて)

今思うと彼はこんなもの、どうやって入手したのだろう。わたしだったら上手い言葉が一つも思い浮かばない。当時は中学生で、高校生ですらなかったというのに。相当訝られたんじゃないだろうか。渡されたときは気にしなかったけど、原澤先生づてに請求したのかな。バスケ部としてのアドバンテージを生かすなら、だけど。
もちろん彼が転入するなんて話はこれっぽっちも出ていない。彼は自分のために請求したんじゃない。折に触れて思い出す彼女のために、だ。

赤司くんはいつか来るかもしれない未来を予期していた。

卒業を三月に控えたわたしたちが二人きりで話したのはあれが最後だったんじゃないだろうか。(見る人から見れば)有終の美を飾った部活もとっくに引退し、推薦を受ける彼らの進学先が正式に決まった頃だった。


「桃井は桐皇だったな」


スカウトなんてないマネージャーのわたしは悩んだ末、放って置けない幼なじみを追うことに決めていた。誰から聞いたのか、偶然会った彼は立ち止まったあと、そんなセリフで切り出した。放課後まばらに人の行き交う三年廊下での出来事だった。
立ち止まり、お互い目を合わせる。彼は口元こそ笑みをたたえていたけれど、いわゆる含みのある顔と表現するに等しい表情で、そうでなくても去年から彼の態度には疑念がつきまとっていたわたしの胸の内には少なからず警戒心があった。


「うん。…まだ受かってないけどね」
「問題ないだろう。桃井なら狙ったところに必ず受かる」
「あはは。ありがとう」


愛想笑いではなかった。部活時代のひやりと冷たい雰囲気が薄れたのか、目の前の赤司くんはいくらか柔らかく、そんなやりとりだけで無意識に安堵したのだ。引退してからこうして話すのは随分と久しぶりだった。加えて彼に背中を押されると自信が湧いてくる。懐かしさも相まって、緊張感はすでに失せていた。
だから、彼の表情の意味を察することができなかった。


「桃井にのことで頼みがあるんだ」
「うん?」


反射的に返したわたしは、彼が一度目を伏せるのを確かに見た。


「彼女を桐皇に行かせることになるかもしれないから、そのときはよろしく頼むよ」


「……え?」ひどく小さな声だった。突然後ろから驚かされたような感覚に頭が真っ白になる。赤司くんは今なんて言った?彼女を桐皇に行かせるって、本当に言った?聞き間違いかも、そんなわたしの願望は残酷にも彼の表情によって打ち砕かれる。いつも通りの堂々とした姿勢ではあったけれど、試合中には絶対見せない表情だった。


「…どうして?一緒にいないの?」
「いたくてもが不幸になるかもしれないからね」


淡々と述べる彼の声が質量を持ったように重くのしかかる。震える喉で息を吸うとヒリヒリと痛んだ。急激に渇いているのだ。逃げるように彷徨わせた視線でこのとき初めて、彼が一枚の紙を持っていることに気が付いた。裏面を向いているので内容はわからない。表が見えていてもこの場面で文字を読むことは不可能だっただろう。
ちゃんが、赤司くんを追って洛山高校を志望していることは数日前に本人から聞いていた。彼女との会話も久しぶりで、お互いの志望校の話をしたあと激励を交わしてさよならした。きっと偶然でもなければ会うことはないだろう。彼女とは連絡先の交換もしてないのだ。そんな人間に、赤司くんはちゃんを任せると言っている。一緒にいたらちゃんが不幸になるかもしれないからって言ってる。堂々とした態度に遣る瀬なさが滲んでいるのがわかる。本音はどうであれ、本気で言っているのだ。「………」目を見開いたまま、彼へと顔を上げる。


「それは、赤司くんが決めることじゃないよ…」
「……ああ、前に涼太も同じようなことを言っていたな」
「……」
「もちろんが決めることだ。だが僕が決めなければいけないことでもある」


自分の心臓の鼓動がよくわかる。だんだん気持ちが悪くなってきた。このプレッシャーは何なんだろう。一人で勝手に感じてることのように思う。「赤司くんはちゃんのこと…」ハッとして口をつぐむ。言ってから後悔した。わたしが確かめたってどうしようもない。きっと赤司くんだって答えるつもりないはずだ。現に彼は、表情を一ミリたりとも変えなかった。


「……わかった」
「ありがとう。念のため桃井にも渡しておくよ」


一歩歩み寄り、差し出したその紙には桐皇学園高校への転入に関する手続きについてと題してずらずらと文字が並んでいた。両手で受け取ったものの、読む気には到底なれなかった。ただ、彼女が洛山に行くこと自体を否定してるわけではないという事実だけが、わたしを幾分かほっとさせた。


「赤司くん、…ちゃんのこと、こだわってあげてね…」
「ああ」


淀みない肯定。目を細めて笑みを深める赤司くんには、しかし心からの笑みとは思えなかった。「でも」と続きそうな表情から目を逸らす。俯いた視界には今さっきもらったプリントがあった。

赤司くんの指示で毎日のように部活を待つちゃんが思い起こされた。赤司くんから離れたくないと笑った彼女。わたしにお礼を言った彼。それだけのことだった。わたしの期待ばかりが膨らんでいたのかもしれない。目が眩んで違う何かを見たつもりになっていたのかもしれない。それほど、二人に対して少しの心配もしていなかったのだ。

このときわたしは初めて、二人の破滅の音が聞こえた気がした。


「赤司くんは……、自分からちゃんを手離すのは大丈夫なの…」


口角に力が入らないまま、最後の力を振り絞るように問うた。



置き時計に目を遣ると長針は夜の七時を指していた。随分長い時間ボーっとしていたらしい。タイミング良くリビングから夕飯に呼ばれる声が聞こえ、反射的にはーいと返した。手に持ったままのクリアファイルに再度目を落とし、「……」少し考えてからプリントを抜いた。ファイルは机の上に置き、プリントだけ持って部屋を出る。

最後の問いかけに対し彼が何と答えたのか、実はよく覚えていない。あのあとわたしは迫るような緊張感から逃げるように帰り、使っていなかったクリアファイルに挟んで封印するように他のプリントの中に紛れ込ませた。恐ろしくて、それ以上のことができなかった。彼への追及なんて以ての外だった。
でも、あのときだけだった。よく考えれば彼の表情は(彼らしかぬほど)、実に雄弁だった。堂々とした物言いのくせ、つついたら崩れてしまいそうな脆さで、どこか自信がなさそうな、本音を隠していそうな表情は、「本当は嫌だ」と言っていた。

それでも赤司くんは自らちゃんを手離す未来を予期している。
わたしはそんな未来が来ないと思っている。

これはもういらない。古紙回収行きの箱に入れてしまおう。下した判断に迷いは少しもなかった。もっと早くに捨ててしまってもよかった。

もし赤司くんにどうしてって聞かれることがあったなら、「女のカン」と答えよう。思いながらわたしは、頼りない一枚の紙を自信満々に新聞紙の上に重ねるのだった。


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