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監督への挨拶で放課後の部活動が終了した。明日の練習試合について小太郎と話しながら手早く荷物をまとめる僕の横で、彼は残って自主練をするつもりなのか練習着を着替えきょろきょろと辺りを見回していた。「それじゃあまた明日」声を掛け踵を返そうとする。と、彼独特の猫目が瞬かれた。


「赤司帰んの?用事?」
「ああ。が風邪をひいたからその見舞いにね」


今日の朝、校内で偶然会った彼女がどうにも具合が悪そうだったので保健室へ促したところ、どうやら熱があったためそのまますぐに早退したらしい。家の人に聞いたところ夏風邪だそうで、病院から帰ったあとはぐっすり眠っているとのことだった。「へー風邪?!俺も行ぶっ」小太郎が言い終わる寸前、図ったようにこちらに近付いてきていた玲央が持っていたボードを小太郎の顔面に押し付け遮った。咄嗟のことに避けられず真正面で受け止めた小太郎は両手で顔を押さえ呻く。玲央は眉間に皺を寄せ睨みつけ、「アンタは黙ってなさい」そのあと僕に向きにこりと笑顔を見せたのだった。


「戸締りは任せてちょうだい。ちゃんによろしくね」
「ああ、頼むよ」


手をひらひら振り見送る玲央に背を向け体育館を出る。後ろで二人が何やら話しているのが聞こえたが耳を傾けることなく帰路を急いだ。今からだと彼女の家に着くのは八時前だろうか。秋を迎えようとしている季節は、夜のこの時間ではもう少し肌寒かった。

は京都に住む母方の祖父母の家に居候している。面識は東京にいた頃からあり、春休みには家に上がったこともあった。部室で一度電話を掛けの様子を伺うと、さっきよりは熱は下がり今は起きていると教えてもらった。何か買って行くべきか聞くとそれは断られたので、着替えたあと真っ直ぐ向かうことにした。
高校からはわりかし近い場所にある彼女の家の呼び鈴を鳴らし、出迎えてくれた叔母さんに挨拶をする。正月に東京に来ていたこの人の人柄の良さにがよく懐いていたのを見たので、おそらくこちらでの生活も不自由していないのだろうと思う。少し話をしたのち、階段を上り彼女が使っている部屋をノックする。一拍置いて中から彼女の返事を聞きドアを開くと、窓際に置かれたベッドにが上体を起こし座っているのが見えた。彼女は僕に気が付くと目を見開き、ひどく驚いたようだった。


「やあ。具合はどうだい?」
「せっ、征十郎くん!来てくれたの?!」
「ああ。あとで雑炊を持って行くとおばさんが言っていたよ」
「あ、うん、そんなことより、うつっちゃうよ!」


「大丈夫だよ」エナメルバッグを肩から降ろしながら答える。実際その心配は微塵もしていなかった。しかしはそうもいかないらしく、途端に不安げな顔をし掛け布団を握り締めた。


「で、でも…やっぱり征十郎くんのマスクもらってくる!」


勢いよくベッドから降り、走って俺の横を通り抜けようとするを制するため受け止める。「大丈夫だって」そう言うと彼女は眉をハの字にして僕を見上げるので、安心させるように言い聞かせた。


「僕が今までの見舞いに来て病気をもらったことがあったかい?」
「…ない、けど、」
「ほら。僕の心配より今は自分の心配をするんだ。熱はまだ下がり切ってないんだろう?」


撫でるように彼女の髪を梳く。言ったことに間違いはなく、過去に彼女が体調を崩した際見舞いに行ったことは何度もあったが、そのせいで自分にうつったことは一度もなかった。今まで大丈夫だったから今回も大丈夫、ということには正確にはならないが、病気をもらわない自信はあったし何より僕がを見舞いたいのだ。だからが気に病む必要はどこにもない。納得したのか、しおらしくなった彼女は小さく頷き俯いた。


「うん…ごめんね征十郎くん」
「謝る必要はないよ。顔を見たら帰ろうと思っていたし」
「明日も部活?」
「ああ。練習試合があるんだ」
「そっか…なら早く帰らないとね」


目を伏せ、寂しそうに言うを愛しいと思う。そしてゆったりとした瞬きを見て、晩ご飯の前に少し眠った方がいいのではないかと考え、髪に絡めていた指を離して彼女をベッドへと促した。それに従い再度潜り込んだはこちらに向き、何か言いたげな表情を浮かべた。


「じゃあ、すきなときに帰るから、は寝てな」
「うん、…ありがとう」


ゆっくり笑った彼女に笑い返し、バッグから本を取り出す。ベッドに寄り掛かり読み進めてしばらくすると後ろから規則正しい寝息が聞こえてき、振り返り顔を覗くと予想通りは寝付いていた。起こさないよう静かに額に触るとまだ少し熱かった。それでもこの土日を休めば月曜には登校できるだろう。ふうと小さく息を吐き、手を離した。ベッドに肘を置いて寝顔を見つめる。
ふと目が行った先で、唇が乾燥してるなと思う。おもむろに手を伸ばし、それに触れる。はリップクリームを持っていただろうか。もしないのなら買ってやろう。
一瞬、動きも思考も何もかもが停止した感覚になる。差した魔を振り払うようにパッと手を引っ込め、から目を背けた。そうだ、雑炊ができているかもしれない。立ち上がり、部屋を出る。

小さい頃からずっと見てきた、少しずつ、けれど確実に大人になっていく彼女をどうこうする権利は、僕にはない。階段を降りる足音が乱れている気がした。


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