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小学校中学年の頃、名前も知らない同級生の嫌がらせを受けたことがある。
学校近く、夜には幽霊が出ると密かに噂される森に放課後呼び出された。呼び出されたと言っても、昔から鈍くさかったとはいえ知らない人について行くほど不用心ではなかったわたしは「赤司くんが呼んでるってよ」と友人に伝えられ疑うことなくそこへ向かったのだ。ランドセルを背負い、時間と季節が合間ってやや薄暗い森の入り口に辿り着く。放課後に活発な生徒が虫取りをしに行くのを見たことがあるけれど、秋も半ばに差し掛かって肌寒くなったこの頃ではさすがに虫もいないのだろう。しかも昨日の雨で地面はぬかるんでいて、人の気配はまるで感じられなかった。
森といっても、どこら辺にいればいいんだろう。とりあえずフェンスで囲われた森の小学校から一番近い入り口に来てみたけど、ここでいいのかな。心配になったものの、間違ってても征十郎くんにはすぐ気付けるだろう、と納得したところで、ふと疑問に思った。
征十郎くんはどうしてここに来いって言ったんだろう?

結論が出る前に足音が聞こえてきた。ハッと勢い良く向くと、同い年くらいに見える二人の男の子が歩いて来ていた。目が合ってしまい咄嗟に逸らす。てっきり征十郎くんだと思って向いてしまった、恥ずかしいな。彼らもこの森に用があるんだろうか、虫がいなくても遊び方はたくさんあるから、その可能性は高い。俯きながら彼らが通り過ぎるのを待っていた。


「ちょっと来いよ」


顔を上げると、目の前に男の子たちが立っていた。予想だにしていなかったことにわたしが固まっていると、もう一人の子が急かしたのか、男の子はわたしの腕を引っ張って森の中へ歩き出した。状況がわからずされるがままだったわたしは少し進んだところでハッと我に返り、抵抗の意を示した。「待って、」近くまできてやっと気付いたけれど、彼らの顔は見たことがあった。だから同級生だろうとは思う。でも今まで同じクラスになったことはないはずだ。こんなことをされる理由が思いつかない。腕を引っ張ってみても止まる気配はなく、足を止めても後ろからもう一人の男の子に押されてそれも叶わない。ついに森の中まで引きずり込まれてしまい、いよいよ嫌な予感を感じ取った瞬間、掴まれていた腕を急に引っ張られたと思ったら強く突き飛ばされた。「わっ!」バキバキと枝の折れる音と腕に走る痛みが脳に伝わり、みっともなく地面に倒れこむ。ぬかるんだ地面に尻もちをつき、同時についた右腕に力を入れるとビリリと痛かった。どうやら草のかたまりに手を突っ込んでしまったらしく、腕を枝で引っ掻いたようだった。勢いが強かったせいで、見ると血が出ていた。……痛い、なんでこんなことするの。「う、うぅ…」じんじんと伝わる痛みに涙が出てくる。堪えきれず嗚咽が漏れてしまう。「泣いた!」すると彼らはそんなわたしを見下ろしながら、慌てる様子もなく、笑い声さえあげたのだった。


「女はいいよなー。こんなんで泣かせられんの!」
「赤司何しても泣いてくんねーんだもんな!」


!全部赤司のせいだからな!」彼らが言い放った台詞でやっと、これが征十郎くんへの腹いせなんだと知った。あとになって理解したけれど、彼らは征十郎くんの小学生らしかぬ大人びた態度をよく思わなかったのだそうだ。しかし理由が何だったとしても、わたしはこのときすっかり混乱してしまい泣くことしかできなかった。とにかく早く逃げたい一心で、けれども腰が抜けて力はちっとも入らなかった。


!!」


耳に届いたのは紛れもない征十郎くんの声だった。救いとも呼べる声にぐしゃぐしゃの顔のまま見上げると、フェンスの入り口から彼が走ってきていた。征十郎くんは途端に慌て出した男の子たちに目もくれず、わたしの前に片膝をつくと肩に手を置いた。


「大丈夫か、
「せいじゅうろうくん、……」
「もう安心していいよ。帰ろう、校門に車を呼んであるから」


彼の言葉に心底安心したわたしがこくこく頷くと、征十郎くんも少しだけほっとしたように表情を緩めた。けれど腕を見た途端、彼はいつの間にか逃げ出していた男の子たちの方をキッと睨みつけた。それから彼らに向かって口を開き、何か言おうとしたのをすんでのところで止め、首を左右に振り、わたしに向き直ると眉尻を下げてもう一度「帰ろう」と、どこかやるせなさそうに、笑ったのだった。

学校の校門までおぶってもらい、征十郎くんの家の車に乗せてもらって帰った。彼の自宅に着く頃には自分で歩けるくらいに足は復活していて、おぼつかない足取りで促されるままお風呂場へ連れて行かれた。


「泥流してしまいな。お湯張ってないけど、シャワーだけでさ。着替えは用意させるから」
「ありがとう……」


ランドセルを受け取った征十郎くんはわたしが微かに言えたお礼を聞くと、心配そうな表情のまま去って行った。……征十郎くん、何か言いたそうだった。思いながら、脳みそはまだ整理が追いつかなくて、ぼんやりしたままシャワーを浴びたのだった。
お風呂から上がると征十郎くんの言った通り着替えが置いてあり、家の人かなあと申し訳ない気持ちになりながら着替えた。髪の毛はバスタオルで軽く拭いたからこれでいいや。それと一緒にロングタオルも置いてあったので、肩にかけてリビングに向かった。ドアを開けると暖かい空気を感じて、それに身を包まれると自然と心が落ち着いた。





台所の方から征十郎くんがやって来た。わたしは、彼の存在以上に安心を与えてくれるものはないと思うのだ。ほっと笑みを浮かべると征十郎くんも柔らかく笑って、手に持っていたマグカップを差し出した。「はい、ココア。暖かいよ」ありがとうと言い受け取る。両手からじんわりと暖かさが伝わり、自然と口元が緩んだ。はあ、と安堵の息を吐く。


「おいで、怪我の手当てをしよう」
「うん」
「あと髪の毛も乾かさなくちゃね」


うん、頷く。征十郎くんに連れられ、ローテーブルの近くにある座椅子に座った。テーブルの上には救急セットが置いてあり、征十郎くんは中身を広げ、手際良く傷の消毒と手当てをしてくれた。他に痛いところはないかと聞かれ首を振ると征十郎くんは、そうか、と少し安心したような表情を見せた。次は髪の毛だな、と洗面所からドライヤーを持ってきた彼はソファに座り、わたしは絨毯に体育座りをして征十郎くんに任せた。半乾きのままでももちろんよかったのだけれど、征十郎くんが手ぐしで髪の毛を梳かしてくれるのがとても心地よかったので何も言わなかった。
綺麗に乾かされ、最後にクシで梳かしてもらう。そういえば征十郎くんの服が変わっていたから、彼も着替えたのだろう。泥だらけのわたしをおぶってくれたせいで征十郎くんも汚れてしまったのだ。さっきまで気が動転して他のことを気に掛ける余裕がまるでなかったから、今更申し訳ない気持ちが膨れ上がってくる。そしてそれと同じくらい、感謝の気持ちも大きかった。「よし、終わり」彼の声が上から降ってきて、そのあとわたしの隣に腰を下ろした。体育座りをしたままじっと俯いているわたしに体を向け、右手を伸ばし髪を撫でる。征十郎くんの手が優しくて、また涙が出てきそうだった。


「…ありがとう」
「これくらい、礼を言われることじゃないよ」
「ううん、髪の毛も、手当てもだけど、助けてくれて、ありがとう。本当に本当に、ありがとう」
「……」


ものすごく迷惑を掛けてしまったのだ。今までだって確かに、いろんなことで征十郎くんに迷惑を掛けたことは何度もあったけど、今回みたいなことは初めてだった。きっと、征十郎くんが森に呼んだなんていうのから嘘だったのだ。もっと気をつけるべきだったのに、わたしはまんまと騙されて、結果征十郎くんにこんなことまでさせてる。あのまま征十郎くんが来てくれなかったら、どんなことをされてたかわからない。わたしは足りない頭で考えうる恐怖を想像し身を固くした。助けてくれてありがとう、そんなのじゃ足りない。もっとちゃんと言わないと。そう思い、征十郎くんに顔を向けた。
瞬間、肩を引き寄せられ、ぎゅうと抱き締められた。驚いて目を見開く。突然、どうしたんだろう。目を動かしてみても視界には征十郎くんの赤い髪しか映らないから表情はうかがえない。「…せ、」そうして彼の肩口に手を当ててようやく、征十郎くんが緊張してるのがわかった。


「…ごめん。俺のせいで」


征十郎くんがこんなに苦しそうに謝ったのは、このときが初めてだった。


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