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バスケ部の部室をノックすると、はーいと明るい声とともにドアが開き実渕さんが迎えてくれた。昨日征十郎くんを通し、マニキュアを塗りたいから明日の放課後時間はあるかと聞かれ、その日が暇なことを確認してから頷くと今朝本人からホームルームが終わったら部室に来てほしいとの連絡をもらった。部活の休憩時間によく話し掛けてくれるありがたい存在である実渕さんとはしかしメッセージツールを使ったのはこれが初めてだったので、緊張しながら丁寧に返信をした。
マニキュアの話題は二人の間で以前から挙がっていて、塗ってみたいと思ってることも実渕さんは知っている。けれどまさかオフの日を使ってわざわざやってくれるとは思っていなかったので、征十郎くんから聞いたときは大層驚いた。入るのは何度目だろうか、もう物珍しくはなくなったそこへ促されるまま足を踏み入れる。


「ここ座って」


部室には大きめのテーブルが置いてある。それを挟んで二つずつ、四つのパイプ椅子が並べてあり、わたしは言われた通り足元にカバンを置いて一番近くのそれに座った。実渕さんはにこにこしながらポーチをわたしの近くに置くと、向かい側の椅子をこちらに引っ張ってきた。マニキュアを塗るのにこのテーブルの幅は不都合なのだろう。角で向き合うように座った実渕さんは早速「さて、どれがいい?」とポーチから出した四つのマニキュアを並べてくれた。四色とも暖かい色をしたもので、赤からオレンジの綺麗なグラデーションを見ているみたいだ。わたしはそれらを一通り眺めたあと、気になった一つを指差し、これがいいです、と答えた。選んだそれは薄いピンク色で、実渕さんは笑顔で了解よと言いながら綺麗な動作で蓋を外した。わたしはマニキュアという初めての経験に心を躍らせながら、お世話になる実渕さんへ深々と頭を下げたのだった。


「よろしくお願いします」
「こちらこそ。それじゃ、まず右手ね」


差し出した右手に実渕さんの手が添えられる。爪から伝わる筆の優しい感覚がむず痒い。口角が上がってしまうのを必死に堪えていると、しばらくしてからガチャリと部室のドアが開かれた。


「うお、くっせ!って、おまえらか」
「シンナーだ!シンナーの匂いする!」
「静かにしなさいようっさいわね!」


入ってきたのは根武谷さんと葉山さんだった。マニキュアの独特な匂いが部屋に漂っていたため二人は鼻を押さえ、賑やかな彼らに実渕さんは声を荒げた。しかし長年の慣れか葉山さんはまるで動じず軽い足取りでこちらに来ると、わたしたちの手元を覗き込んで目を輝かせた。「おーマニキュア!レオ姉器用だねー」「ああもう、気が散る!」半ば葉山さんの勢いに圧倒されながら目を別の方へ向けると、こちらも長年の慣れか二人のやりとりに見向きもせずロッカーの近くに荷物を置いた根武谷さんが見えた。彼の様子からして二人はおそらく自主練をしに来たのだろう。朝練の名残りでエナメルバッグなんだと思ってたけど、もしかしたら実渕さんも自主練をする予定があったのかもしれない。
申し訳ないことをしたなあと思っていると、再びドアが開き反射的にそちらに目が行った。「あっ」今度は征十郎くんが入ってきたのだ。思わず声を上げると征十郎くんと目が合い、すると彼はああ、とほんの少し驚いたように笑った。


「早かったな。もうやっていたのか」
「うん!」
「征ちゃんも自主練?」
「ああ。玲央もあとから来るかい?」
「そうね、終わったら行くわ」


わかったと返した征十郎くんはエナメルバッグを肩から降ろしながらこちらに歩み寄り、葉山さんと同じようにわたしたちの手元に目を向けると「うん、綺麗な色だ」と感想を述べた。わたしはそれが嬉しくて、さっきまでむず痒さを堪えていたのも相まって、思いっきり破顔したのだった。「でしょう、ちゃんが選んだのよ」実渕さんも嬉しそうにそう返すと、征十郎くんはそうか、と頷いた。


「それに玲央の塗り方も綺麗だ。器用だね」
「やだ、ありがとう征ちゃん〜!」
「俺との差ひどくない?!」


後ろで葉山さんがそう叫んだので思わず苦笑いしてしまう。視線を戻すと征十郎くんも同じような表情をしていて、座った体勢から見上げていると気付いた征十郎くんがこちらを向き、「遅くなるかもしれないが、も待ってるかい?」と聞いてくれた。そうしたいと思ってたので切り出してくれたことが嬉しくて、うん!と大きく頷くと、征十郎くんは小さく笑った。

葉山さんと根武谷さんと一緒に部室を出て行く征十郎くんを目だけで見送り、それからまた前に向き直ると、実渕さんがわたしを見ていることに気が付いた。その表情は穏やかに笑みを浮かべて何か言いたげだったので、何を言われるんだろうと思考する、前に実渕さんの口が開いた。


ちゃんは征ちゃんのこと、本当にすきよねえ」


そう呟いた実渕さんに、わたしは少しも迷うことなく頷いた。実渕さんの声はどこか安心するように、むしろ、自分を安心させるために発せられたようだった。問い掛けですらなかったからわたしが頷く必要もなかったのかもしれない。シンプルな言葉に否定する余地はどこにもなく、実渕さんはただ事実を口にしたにすぎなかった。そして、それが事実だということを、実渕さんは前から知ってるのだ。頷いたわたしに実渕さんがふっと目を伏せると、少しの間沈黙が流れた。


四月の中頃、実渕さんからその話を初めて振られたときは疑問形だったと思う。問い掛ける実渕さんの表情がとても楽しそうだったのを覚えている。「ちゃん、征ちゃんのことすき?」わたしは今までの経験上、この手の質問は濁して誤魔化すのが正しい返答の仕方だと思っていて、それは今でも変わってないのだけれど、実渕さんの独特な雰囲気と、なにより征十郎くんのチームメイトであることがわたしの本音を後押しして、このときとても素直に頷いたのだった。
実渕さんが目を輝かせたのを見てわたしは、自分で肯定したことに幾分かすっきりしていることに気付きながら、すぐに言葉を続けた。誤解を生んでしまわないように。


沈黙ののち、目の前に座る実渕さんは困ったようにわたしを見た。なんとなく言いたいことがわかってしまう。


「あれは、今でも変わらないのかしら?」


また頷く。「でも征十郎くんとどうなりたいとかじゃあないんです」あのとき、体育館横の出入り口でそう答えたわたしの意思は何も変わってない。征十郎くんがすきだ。ずっとずっと前からその気持ちはあって、小学校で一度やっかみを買ってからは誰にも言うまいとしていたけど、一瞬たりとも褪せることなくわたしの心を構成していた。征十郎くんのそばにずっといたいと思う根本にはきっと「恋心」があるのだろうけれど、わざわざそんなことを考えるまでもなく、わたしにとってはもう、そうあることが当然だった。

そして、そばにいたいなんていうわたしのわがままを聞いてくれて、守ってくれて、そんな優しい征十郎くんに何か返したいと思う。大げさかもしれないけど、わたしにとって、そばにいてくれる征十郎くんに感謝を返すことが存在意義なのだ。だからそれ以外のことはどうでも、よかった。


「わたしのことはどうだっていいんです。征十郎くんが幸せだったらいいんです」
「…もう、無欲ねえ。慎ましいっていうのかしら」


呆れたように、観念したように右頬に手を当て溜め息をついた実渕さんから目を逸らし、乾かし途中の指先に集中した。どうだろう。征十郎くんがいつも報われてほしいと思うこれは慎ましいといえるのだろうか。それにわたしはそんなことを言いながら自分のことを完全に捨て切れてはいなくて、離れたくないという気持ちを、どうしても譲れないでいる。こんな、深い欲がちゃんと還元されたらいいと思っているのだ。ほらやっぱり、どこも慎ましくなんてないだろうなあ、こんなの。
左手の小指の爪をなで、もう乾いたことを確認した実渕さんは次にトップコートを塗ってくれた。乾くとツルツルして楽しいのだそうだ。それを眺めながらわたしは、自分の爪がむかし本に出てきた女の子が塗っていた桜色のマニキュアみたいだとぼんやり思っていた。


「あなたといるときの征ちゃん、雰囲気がすごく柔らかいのよね」
「…そうですか?」


透明なそれも塗り終え、あとは乾くのを待つだけとなったところで、実渕さんは溜め息をつくように零した。それに対してわたしはどう答えたらいいのかわからず、とぼけたような返事をしてしまう。考えたこともなかった。わたしの目に映る征十郎くんは人望があって誰からも慕われていて、そんな彼はいつも柔らかくて、優しいから。バスケ部の主将としての彼はまた違うのだろうけど、だとしても実渕さんからそう見えるのは、きっとわたしが征十郎くんに甘え切ってるせいだと思う。思って、また気持ちが沈む。「私がとやかく言えることじゃないけれど」実渕さんの目が伏せられる。


「征ちゃんから、離れていかないでね」
「……そんな、離れようなんて思ったことないです……おもえないです」


語尾が震えた。わたし、もし征十郎くんがいなくなったらどうすればいいのかわからない。それくらい征十郎くんに寄り掛かって生きているというのに、どうしたら離れようと思えるのだろう。……実渕さんは、本当は何が言いたいんだろう。言いたいことを何重にも包んで、遠い言葉でコーティングしてるみたいだ。


「そうよね、征ちゃんもきっとわかってはいるんだけれど、それでも不安なんでしょうね」
「……」
「…ごめんなさい、あなたまで不安にさせるつもりはなかったの」


実渕さんは両手で口を隠し、申し訳なさそうに眉尻を下げた。大丈夫です、と震える声のまま返すと、申し訳なさそうなまま笑顔を作り、


「あの子の幸せが何か、わかってあげてね」


今のままでしかいられないわたしにそう言った。




部室で待ってるか聞かれたけど、いつもの場所に行くことにした。セメントでできた階段に一人座り、膝に手を置いて背中を丸める。
わからないのだ。ずっと一緒にいたのに、彼の幸せがいつまで経ってもわからなかった。幸せになってほしいし、征十郎くんが喜ぶためできることは何でもやってきた、けれど。
……ぐるぐる心臓が渦巻いてるみたいだ。気持ち悪いな。

結局一番、彼のためになることはできないでいる。


(………征十郎くん、)


ぎゅっと目を瞑り、さっきの実渕さんの台詞を反芻する。わたしが離れていくことを、もし征十郎くんが不安に思っていて、わたしがいることが征十郎くんのためになるのだとしたら、どんなに嬉しいことだろう。そんな都合のいい解釈が思いついて嫌になる。わたしがこんなだから、実渕さんは励ましてくれたのかもしれない。だって征十郎くんが、わたしが離れてかないことで安心できるなんて、そんなの、……征十郎くんの安心じゃなくて、ただのわたしの安心だよ。離れていくのはわたしじゃなくて、あるとするなら征十郎くんの方だ。わたしはいつだって、いらないって言われるのを恐れている。だってほんとは、わかってるのだ。


わたしがいなければ征十郎くんは大変な思いをしなくて済むって、わかってる。
でも、それだけはずっと、諦められなかった。


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