このホテルは明日で離れることになっていた。夜の十時を過ぎたから外に見える月が綺麗だ。けれど眼下のネオンが少しうるさい。星が見えないよ。


 ベッドに横たえた黒い縦長のケースの存在を確認して、窓辺から離れる。まだ眠くないし、寝るつもりもなかった。もう少し片付けられるだけ片付けちゃおう。明日すぐ、呼ばれたらすぐに、出られるように。何てったってわたし、朝がとても弱いものだから、起き抜けに呼び出された日には、ホテルに忘れ物五、六個置いてくことだってあるんだからね。少しずつ自分のことを学んでいく。改善するべきなんだけど、おかしいな、自分に甘いのがいけない。

 ドレッサーの上に広げたブラシやヘアクリームを適当にポーチに詰め、チャックを閉じたそれを洞窟みたいに黒いキャリーケースへ放り投げる。重く弧を描き、見事洋服の上へボフンと音を立て着地してみせたサテン生地のポーチにふふんと鼻を鳴らしてみる。誰もいない一人部屋。虚しいったらありゃしない。
 ブーブーとくぐもった振動音が耳に届く。携帯のバイブレーションだ。反射的にベッドへ顔を向ける。案の定、枕元にこれまた先ほど放り投げた携帯が、震えながら画面を光らせていた。わあっとベッドにダイブする。さながらフラグレースみたいだった。栄えある優勝に輝き見事携帯を手にしたのは選手です!おめでとうございます、勝利の感想をお聞かせください。「えー、誰からの電話ですか?」独り言。

 発信者は師匠のカルバドスさんだった。


「もしもしっ!」


 途端に起き上がって正座する。何やってたんだわたしは。今までの茶番が悔やまれるよ。耳から頬に当てた携帯から、向こう側の気配が聞こえる。


『今大丈夫か』
「はい」
『俺の部屋に来てくれ。すぐにだ』
「わかりました!」


 プッと通話終了の音。耳から携帯を離すと、画面は何くわぬ顔でホームを映していた。数秒放心して、ハッと我に返る。呼ばれた。行かなきゃ。
 ベッドサイドから降りたとき、相変わらず眠っている黒いケースが目に入って、逡巡したのち、いらないだろうと結論づけた。呼ばれただけだしね。わたしのやつ、出番は多分、外じゃ当分ないだろう。


 カルバドスさんの部屋は左隣だ。オートロックのカードキーを大事に持ちながら、それ以外は何も持たず廊下に出る。ガチャリと開いた扉。すぐ視界に、黒い影。


「あ」


 思わず声が漏れてしまった。とっても驚いたものだから。だってまさか、カルバドスさんの部屋からあの、ジンさんが出てくるなんて、予想しないでしょう。わたしはたいそうびっくりしてしまって、頭の中は軽くパニック状態で、あわあわと口を動かしたあと、


「お、お疲れさまです」


 へこっと頭を下げた。心臓はバックバクである。けどジンさんは予想通り無視をして、「さっさと戻るぞ」と背中を向けエレベーターの方へ行ってしまう。……やっぱり覚えられてるわけないかあ。虚しい。わたしは誰かといても虚しい気持ちになるらしい。

 そういえば今、ジンさんは誰に「さっさと戻るぞ」って?

 ジンさんが離れたあとも入り口のドアは閉まらなかった。開いたまま、誰かの背中が見えた。黒いスーツだった。男の人だというのは後ろ姿ですぐにわかった。


「それでは、失礼します」


 やっぱりそうだ。中性的な声ではあったけれど。部屋の中でカルバドスさんの声が応え、廊下に出てきてた人がドアを閉める。完全に姿が見える。明るい茶髪、真っ暗なスーツにダークグレーのシャツ。ネクタイまで黒いから、色白の肌が浮いて見えた。

 棒立ちしていたわたしと目が合った。深い赤色の瞳。





 わたしはソファにかしこまったように座っていた。備え付けの冷蔵庫から、見るだけでクラクラしそうなどっしりとしたビンを取り出したカルバドスさんは、ローテーブルにそれとグラスを置き、向かいの一人用のソファに腰を下ろした。


「カルバドスさん、ジンさんと一緒に出て行った人、どちら様ですか?」
「ああ、白馬探だな」


 はくば、と口が動く。久しぶりに聞いた、自分以外の日本人の名前だった。

 あのあと彼は軽く視線を落としたと思ったら、会釈だけして去っていった。わたしはといえば本日何度目かの放心をしていて、我に返ったあとすぐにカルバドスさんの部屋のドアを叩いたのだった。
 白馬さん、同じ日本人とは思えない綺麗な顔立ちだった気がするけれど、それはわたしの脳内が勝手に錯覚しただけかもしれない。なにせ今となっては数分前のジンさんとの遭遇も、白馬さんのお顔もぼんやりとしか覚えてないんだもの。わたしの脳みそはポンコツなので瞬間記憶というものを知らないんだろう。


「随分な切れ者らしくてな。この間あいつの作戦がかっちりハマって大手柄だったそうだ。そろそろコードネームをもらうんじゃないか?」


 カルバドスさんは見たことのないお酒をロックで飲みながら、つらつらと教えてくれる。呼ばれたのは、ジンさんに伝えられた任務の共有をしたかったからだそうだ。もちろんわたしは仕事の中枢には関与しないけれど、存在だけでも役に立つことはある、らしい。
 ジンさんと一緒に行動してる人はウォッカさんしか知らなかった。前に一度カルバドスさんのおまけで彼らとの任務に同席したことがあったけれど、その場に白馬さんの姿はなかったと思う。ああでも、わたしバカだからなあ。どこまでも自分に甘くて、どこまでも自分を諦めてるから、自信がない。


「ジンのお気に入りだそうだ」


 ソファにゆったりと座るカルバドスさんが、低いグラスをあおる。「そうなんですかあ…」その光景をぼんやり眺めていたら、ぼんやりした返事しかしてなかった。なんたって、わたし今、当てにならない記憶が、脳内で再生されているものだから。


 あのとき。

 目が合って、すぐに離れる。

 もしかしたらあなた、素敵な人に見えたの。