「コードネーム、ですか」


「ああ」愛車であるポルシェの助手席に座る彼はこちらを振り向くことなく肯定を返した。全身を黒に包んだそのいで立ちは逆に人目につきそうに思うが、現代の都会は十人十色のファッションを、彼を含め隣で運転する男をも色彩の渦に飲み込むのだろう。かくいう自分も、染め上げる色はそれであるのだけれど。
 後部座席から見えるミラーでは彼の表情までは確認できない。その彼が言うには、ボスが僕にコードネームを与えようとしているとのことだった。コードネームをもらうということはこの組織では幹部にあたる立ち位置の証明になる。間違いなく任務の内容もガラッと変わってくるだろう。とは言っても、現時点で僕の任務内容が他のコードネームなしの連中とはすでに違うので、変わることはあまりないのかもしれない。
 それにしても、それを与える気になったのは、やはり先日の暗殺計画の一端を担ったことが理由だろうか。同じようなことはこれまでに何度もしていたのだが、ターゲットが大物だっただけにボスの耳にも特に届いたのだろう。………。


「ふふっ…」


 思わず笑い声が漏れてしまう。肩を揺らして短く笑った僕に、ジンさんとウォッカさんがわずかに振り返った。「申し訳有りませんが、遠慮しておきます」にこりと笑顔を向けてみせる。


「未成年なので」





 ボスの趣味か理由があるかは不明だが、コードネームは一貫して酒の名前を与えられる。運転席と助手席に座る彼らももれなくそれだ。僕が入る前から幹部クラスだった彼らの本名を知る機会はないが、女優クリス・ヴィンヤードの顔を持つベルモットさんの例を挙げるならば、本名とはかすりもしないもののようだ。

 それに、宮野志保はシェリーでしたしね。研究所の地下牢に手錠に繋がれ意気消沈していた彼女の姿を思い浮かべ、あの人も未成年だったはずだと考える。確か僕の一つ上だったか。


「僕は三年後の楽しみにとっておきますよ」


 道路は行き交う車で溢れていた。その向こうでは暗い夜のネオンがあちこちで存在を主張している。見慣れたというほどこの国のこの地域には滞在していなかったが、もう数十分もすれば馴染み深い街並みになるだろう。今日は組織の所有している研究所付近にホテルを取っていた。

 助手席に座るジンさんはふっと笑ったあと「そう言えるんならおまえはノックじゃねえな」と低い声で呟いた。窓の外を眺めていた僕は思わずパッと彼へ首を向ける。……まだ勘繰っていたのか、僕がシェリー逃亡の幇助者だと。さすがに苦笑いを禁じ得ない。
 一時組織内を騒がせた一人の少女の逃亡。シェリーの行方は未だ掴めていなかった。もともと彼女との面識のなかった自分がやれ同じ日本人だ歳が近いだと言いがかりをつけられ調べ上げられたのは記憶に新しい。そうでなくとも今まで、ノック、NOCを疑われるようなことをしたつもりはないのだが。

 再び目を向けると景色は予想通りの街並みに変わっていた。黙っているウォッカさんが慣れたようにウインカーを出し右折すると、右手に一際大きなビルが見えた。その二軒先にも手前のそれと見劣りしない高さの建物がそびえ立っている。十中八九、今日の宿泊先はあそこで間違いない。そう当たりをつけてから、窓へそっと頭を傾け寄りかかった。視界は移り変わる外の景色。……僕がここにいる理由は、至ってシンプルだった。


「以前にも話しましたが、シャーロック・ホームズシリーズでもっとも魅力的なキャラクターは、僕にとって彼だったんです」


 ジンさんは僕を横目で一瞥したあと、「…フン」視線を正面に戻し鼻で笑った。


「おまえが好奇心で生きてることはわかってたぜ」


「……」窓の外を眺めたまま、ジンさんの台詞に満足して眼を細める。彼の言葉に間違いはなかった。それを汲んだ上で僕を助手のような位置に置いているこの人も相当物好きだろうと思う。





 車を地下駐車場に停め、無人のそこを歩いていく。三人分の足音はしんとした空間によく響いた。


「ところで、さっきカルバドスさんの隣の部屋から出てきた彼女、組織の人間ですか?」
「一応はな。そう認識してるのは拾ってきたカルバドスらスナイパーの連中だけだが」


 そうですか、と呟く。初めて見た顔だったが、躊躇いなくカルバドスさんの部屋に入って行ったところからその予想は容易だった。「最近見てませんでしたが、まだ生きてやしたか」ジンさんの斜め後ろを歩くウォッカさんがそれに加えて、前回カルバドスさんを交えた任務をした際、彼のそばに小さい少女がいたことを話してくれた。立ち位置としてはコードネームもない下っ端といったところだろう。


「どうした?気になるのか」


 僕に目だけで振り向くジンさん。取るに足らない小娘だろうとでも言いたげだ。もちろん僕も、今から脅威の可能性を考えているわけではない。肩をすくめながら、小さく首を振って否定の意を主張する。


「驚いたんですよ。あんな人、ここに来てから初めて見たので」


 だって彼女、武器も持たず丸腰だったのだ。足を進めながら、ジャケット裏の拳銃の存在を感じる。口元には無意識に笑みをたたえていた。