教室に入った途端甘い匂いが香ったように感じたのは錯覚だろうか。少ない女の子のクラスメイトの中でも入り口に近い子がわたしと勝己くんにおはようと言ってくれる。それにぎこちなく返して、無言だった勝己くんと自然と別れる。今月の席替えで勝己くんと思いっきり離れてしまった自席へと足を向けると、前の席に座っていたオレンジ色の髪の子がクルッと振り返って、「はい!」と可愛い袋に入ったクッキーを差し出した。


「ハッピーバレンタイン〜!」
「あ、ありがとうー。わたしも、どうぞ」


 手提げから生チョコの入った袋を渡すと嬉しそうにパッと笑う女の子。彼女とは、席が近くなってから話すようになって、先週、バレンタインのお菓子交換を持ちかけられたのだ。といっても、「ちゃんにも作ってくるからね!」と言ってくれたのがありがたくて、どもりながらも、わたしも持ってくるねと約束しただけなのだけど。
 そのあとお昼休みに毎年あげている出久くんたちに渡して、お仕事は終了した。女友達と交換したのは前の席の子と校外学習で同じ班になってくれた子くらいだし、男の子に至っては去年と同じ三人にしかあげていない。勝己くんにも一応朝に、生チョコはいるか聞いてみたけれど、いらないと即答されてしまった。だから今日はもう閉店だ。厳密にいうと、昨日のうちにわたしのバレンタインは終わってるのだけど。
 いくら勝己くんが生粋の辛党でチョコなど滅多に食べないといっても、バレンタインに何もあげないわけにはいられないのが恋する乙女の心情だ。だから昨日、他の人用の生チョコを固めているあいだ、勝己くん用に甘すぎないクッキーとガトーショコラも作った。そして、その日のうちに勝己くんを家に招き、キッチンで片付けをしている間、テレビを見ながらおやつ代わりに食べてもらった。だから実は、もう十分満足していたりする。

 志望校のことは何も考えていない。考えると他のことに手がつかなくなってしまうから、記憶の奥底にしまいこんで忘れたことにしている。あえてその話題に触れないようにすることでなんとか日々の生活に支障を来さないよう生きているのだ。それでも、刻一刻と迫る卒業というタイムリミットが恐ろしくて、ときどき悲しみが顔を覗かせてはクッションへ手を伸ばしていた。


「俺ら先帰るわ」


 放課後となった午後三時半。勝己くんの友達二人がそう言ってそそくさと教室を出て行くのを手を振って見送る。いつも一緒に帰るのに、なんでだろう。「てめェら…」凄む勝己くんに慌てたように、アレじゃねーから!と弁明する彼ら。さすがに人の目が多いからタバコと明言するのは憚られたんだろう。


「カツキどうせすぐ帰れねーっしょ?メンドいからさ」
「あ?」
「……!」
も帰る?」


 彼らの意図を察したわたしは、「残るよ!」ときっぱりと断った。「健気だねえ」呆れたように、ちょっと馬鹿にもするよう言って、二人は廊下へと出て行く。スクールバッグをすでに肩に掛けていた勝己くんは、意味がわからないとでもいうかのように顔をしかめわたしに問いかけようとしたけれど、残念ながらそれは遮られてしまった。もちろんわたしじゃない。


「爆豪くんいる?」


 カラッと快活な女の子の声。振り向く前に、体育会系の子だと直感した。何度も言うけれど狭い世界を生きるわたしが、たとえ同い年であろうと全員の同級生を把握しているはずもなく、初めて見る女の子二人組に無意識に唇を噛み締めていた。勝己くんに向き直る。呼ばれた彼は余計怪訝に眉をひそめ、彼女たちと目を合わせた。


「あ、いたいた。ちょっと来て」
「……んだよ」
「いいから来てよ」


 舌打ちをし、わたしのすぐ横を通り抜けていく勝己くん。……行かないで。思ったところでまさか口にはできない。わたしはたまらず、廊下へ出て行った勝己くんを追いかけた。もちろんこっそりとだ。教室を出て行く人たちの迷惑にならないように、ドアから顔だけ覗かせる。予想通り快活な女の子は呼び出し役なだけで、主役はもう一人の子だった。同じ部活の友達なのかもしれない。顔を赤くして勝己くんに何やら言っているその子も、運動神経がよさそうな雰囲気を感じたから。


「そ、それで、あの、ずっと前から爆豪のこと見てて、なんでもできてすごいなーって思ってて、」
「……」
「あーもうまとまんない!……これ!本命だから!受け取るだけ受け取って!」


 そう言って勝己くんに押し付けたのはピンク色の包装紙に包まれた直方体の箱だった。かわいいラッピング。本当に、本命なんだろう。後ろ姿の勝己くんが受け取る。その光景を目にした瞬間、わたしの心臓は、明らかに異常に、ざわっと震えた。さっきより強く唇を噛む。だから早く帰ればよかったのにって、男友達の声が脳内に響いた。

 こんなにかっこいい勝己くんが女の子からもてないわけがなく、毎年バレンタインではわたし以外にも本命を渡す人がいる。それがわかっていながら、誰かに目の上のこぶだと思われようとも、毎年空気を読まずに勝己くんと帰り道までずっと一緒にいる。勝己くんにまつわる恋愛事情の結末を一番に知るために。

 ……みんないいな、告白できて。わたしそんな勇気すらない。苦しくなって、見ていたくなくて、床に目を落とす。
 告白する勇気の成分は何だろうと考えたことがある。自分の魅力への自信、成功するという明確な根拠。それ以外、わたしには思いつくことさえ難しい。少なくとも今のわたしにはできない。だって自分に自信なんてない。同じような個性だってわたしよりすごい人がいる。わたしは典型的な、勝己くんが言うような没個性なのだ。うまくいくなんて根拠を見つけたこともない。勝己くんがすきになるしっかりした子にはなれない。無駄だと知って頑張るのをやめてしまった。じゃあ、本命だと言った、あの子はどうなんだろう。そもそもどこで勝己くんと知り合ったんだろう。
 どこかのクラスの通行人が、茶化そうとした途端相手が勝己くんだと気付いて口を閉じたのがわかった。わたしも目線を上げると、勝己くんは踵を返してこちらに戻ってきていた。「帰んぞ」わたしにそう言って、入り口のドアを素通りしていく。慌てて廊下に出て、ついて行く。振り返ると、女の子たちの微妙な表情と目が合って、どちらからともなく逸らした。





「やる」


 昇降口でひょいと投げ渡されたのは今さっきもらったピンク色の箱だった。綺麗にラッピングされたまま、しわはほとんどなく、放課後まで大事にしまわれていたことがうかがえた。近くで見ても、正真正銘の本命だった。「いいの…?」「いらねえからすきにしとけ」靴を履き替えた勝己くんはセメントの床にローファーの爪先をトンとぶつけて整える。
 去年もそうだった。本命に限らず、勝己くんがもらったお菓子はだいたいわたしに流れる。本人は至って悪気なく、そして欲してないからか後ろめたさもなく堂々としていた。毎年のことだ。


「昨日散々食ったしよ」


 わたしが靴を履き終えたのを見て外へ歩き出す勝己くん。後ろについて行きながら、にやけそうになる口をぎゅっと噤む。彼の言葉の意味を思うと嬉しくてたまらない。勝己くんがバレンタインに食べたの、わたしのお菓子だけだって。他の女の子を踏みにじって喜んでるんだから、よっぽどひどい奴だよ。わかっていても毎年優越感に浸ってしまう。ピンク色の箱を、隠すようにぎゅうと抱き込む。


「それにおまえ最近調子悪いだろ。アホみてえに個性暴走しねえじゃん」
「え、」
「気付いてねえの?」


 驚いてから、顔だけで振り向いた勝己くんにふるふると首を振る。気付いてた。最近身の回りが静かだってこと。急にびっくりすることがなくなったことに。わたしがストレスやプレッシャーにめっぽう弱くて、そういうのを強く感じているときは個性が使えないことを、勝己くんや長い付き合いの人は知っていた。

 今の原因はわかっている。ずっと忘れたフリをしているけれど、志望校のことが憂鬱なのだ。それが心的ストレスになってわたしにのしかかっているせいで、個性を使いたくても使えない。でも、そんなことより、勝己くんが気にかけてくれていたことが嬉しかった。はあっと息を吸う。


「勝己くんありがとう〜…!」
「ん。それ食って元気出しとけ。中何か知んねえけど」
「うん、そうする!」


 破顔して満面の笑みを浮かべる。心臓がじんわりと熱くなって、今なら個性を使える気がした。
 どうしよう、やっぱり考えられないよ。四月になったら三年生で、その次の年は、勝己くんのいない日々を送るなんて。全然、考えられない。


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