体育祭が開催されるスタジアムには野外の競技場を囲うスタンド席の真下に、救護室や各クラスに割り当てられた控え室がある。一年C組の控え室ではクラスメイトが四つの大テーブルをそれぞれ囲み、開会式までの待ち時間を潰していた。あちこちで聞こえる話し声を盗み聞きしながら心臓を高鳴らせる。わたしも漏れなくパイプイスに座り、白いテーブルをじっと見下ろしていた。太ももの上で握り込む両手が冷たい。

今朝、お母さんに念を押すように録画を頼んだ。生中継だから何時に終わるかわからない。だからちゃんと最後まで録れてるか確認しててほしかったのだ。もちろん、自分が出るからじゃなく、勝己くんの活躍が全国放送されるからだ。録画しない手はない。少しでも多く勝己くんを映してほしい。でも心配しなくたって、勝己くんは強くて目立つから観客もカメラも自然と彼を追ってしまうだろう。ああわたしも早く勝己くんの勇姿を見たいなあ…。
他はどうでもいいから、とまで考えて、ちょっと違うなと思い直す。自分への期待は散々すり減らされてきた。未だに個性のコントロールができてる気がしない。でも、今回はちょっと違うのだ。もちろんテレビに映りたいと思えるほどの自信がついたわけではないけれど。


「特訓、一週間ちょっとしかなかったからほんとあっという間だったなー」


わたしとテーブルの角を挟むように座る女の子が頬杖をついて言った。うん、と小さく頷く。彼女とは先週から今日まで一緒にランニングをしてきた。最初は少し走ってすぐバテていたけれど、今週に入ってからは長距離を走り切ることができるようになった。わたしのちょっとした成長だった。


「なんか、走るのに抵抗なくなってきたよ」
「それわかるー。受験シーズンで怠けてた身体が鍛え直された感あるわ」
「あはは」


口を開けて笑うと女の子もあはっと笑った。開会式まであと十分くらいだろうか。体操服に着替えたクラスメイトは各々自由に控え室と外を行き来している。今から行くとしたら他クラスの控え室かお手洗いだろうか。さすがに校舎はスタジアムから少し離れてるから戻れないだろう。
ふと、控え室のドアが開いたのでなんとなくそちらに目を遣ると、心操くんが戻ってきたらしかった。まっすぐ部屋奥のわたしたちがいるテーブルへ歩いてきて、わたしの隣のパイプイスに腰を下ろした。何を隠そう彼はさっきまで同じ席に座っていて、トイレに行くと席を立っていたのだ。ジャージのポケットに両手を入れた彼を見て何か思い出したのか、女の子は「そういえば」と頬杖から顔を離した。


がベソかいてたのはびっくりしたわ」
「! ……あはは…」
「ああ…」


思いがけない話題に頬が熱くなる。恥ずかしい。肩をすくめて俯く。あれももう、先々週のことになるのか…。

放課後のトレーニングを始めようとした初日、偶然会った勝己くんにやめとけと言われてしまった。勝己くんの気に障ってしまったのは明らかで、いよいよ捨て置かれた感覚に襲われたわたしは泣くことしかできなかった。怒らせるつもりはなかった。あのときは、うまく伝えられなかったんだと思う。結果、勝己くんは気分を害したように「勝手にしろ」と去ってしまった。あの絶望を思い出すと今でも心臓が浮く感覚に襲われる。


「すぐ仲直りできてよかったな」


心操くんの声に顔を上げる。何となしに言われた言葉にわたしは目を丸くして、それからへにゃりとはにかんだ。


「うん」


心操くんには特に気を遣わせてしまった。あのあと、ぐずぐず泣き続けるわたしのそばにずっと彼はいてくれたのだ。それでいて、励ますことなく、ましてや今日は帰った方がいいとも言わなかった。待っていた友達が戻ってきた頃にはだいぶ落ち着いていたけれど、そこで当然のように「始めるか」と切り出してくれた。あの日だけじゃなく、昨日までの特訓の中でも何度も気にかけてくれた。本当にありがたい存在だった。


「心操くん、ありがとう」
「べつに。何もしてないだろ」


そんなことない。言おうとしたタイミングで、クラスメイトの一人から声が掛かった。ついに入場の時間らしい。行こっかと女の子が腰を上げる。それに続くようにわたしと心操くんも立ち上がった。

勝己くんに突き放された次の日、いつもより30分早く彼の家の前で待っていた。待ってないと、いよいよ置いてかれてしまうと思ったからだ。勝己くんは普段通りの時間に家を出た。玄関前で待ち伏せするわたしに気付いて一瞬目を見開き、それから顔をしかめて歩き出したので、わたしは迷わず追いかけた。
勝己くんは不機嫌な顔をしたけれど、話しかけるなとまでは言ってない気がした。何より険悪なままはわたしが一番嫌だった。弁解と、ちゃんと言いたいことを伝えたかった。


「勝己くん、あのね……わたしも体育祭頑張りたいの!しっかりした子になりたいから…!」


昨日はきっと伝え方を間違えたんだと思う。ちゃんと思ってることを言えば、勝己くんは聞いてくれるはずだ。彼への信頼だけで確信していたものの、自分への不信感でやっぱり不安で、こんな言葉で伝わっただろうかと、うかがうように勝己くんを見つめる。
勝己くんは何も言わず振り返ったと思ったら、すっと目を細めた。睨んでるんじゃなく、何かを思い出してるような静かな表情だった。ちゃんと聞いてくれてる。そう思ったわたしは伝えたい台詞を続ける。


「もちろん勝己くんの邪魔しないよ!」
「……はっ」


今度は小馬鹿にしたみたいに笑った。そんなの当然だろと言われると予想してたから意外に思ってしまう。内心動揺するわたしをよそに、勝己くんは一度深く首をもたげたと思ったら、斜め後ろを歩くわたしへ再度顔を向けた。ニヒルな笑みはもう見えず、まっすぐわたしを見つめる眼差しと合った。


「ヒーロー志望でもねえおまえを、危ねえってわかってるとこに背中押す方がどうかしてんだろ」


言葉の意味を数秒かけて飲み込むと、きゅうと胸が詰まった。やめとけと言った勝己くんの根底にあった考えを理解した。無駄だから頑張るなって言ったんじゃなかった。勝己くんはわたしのことを考えてくれてたんだ。その上で案じてくれてたのだ。
胸の前で両手を握りこむ。どきどきして宙に浮いてるみたいだった。嬉しい、嬉しい。……でも。


「でも、そういやおまえにも目標があったんだったな」
「!」


進行方向に向いた勝己くんを見上げる。


「ならやるしかねーわな。せいぜい勝手に頑張れや」


すうっと息を吸う。歓喜に喉が震えた。これは、いいやつだ。勝手にしていいやつだ。勝手にした先に勝己くんがいる。頑張ったら勝己くんに見てもらえる。思わず破顔して、大きな声が出た。


「うん!頑張る!」
「ま、俺の邪魔しねーってんなら怪我して泣いても知らねえからな」
「き、気を付けるよ…!」


ハッと意地悪っぽく笑う。溶け広がる安堵に身体中が満たされていく。昨日の絶望が嘘みたいに晴れやかな通学路だった。


隣を歩く心操くんを横目で盗み見る。あれから、毎日走り込みを続けた。今朝も勝己くんと教室で別れるとき、頑張ってって言ったら、「おめーもな」と言ってもらえた。勝己くんがわたしを見てくれてるみたいで本当に嬉しかった。今日まで頑張ってきて本当によかった。
だから、何もしてなくないんだよ、心操くん。


「心操くん」
「なに」
「初めの日、心操くんが気を遣って、帰った方がいいって言わなかったから、わたし今日まで特訓できたんだよ。だから本当にありがとう」


じゃなかったら次の日勝己くんに、勝己くんの言うとおりやめたよって言ったと思う。勝己くんに頑張れって言われることなく。そうなっても勝己くんとは仲直りしていたと思うけど、こんな風に体育祭を自分のこととして考えなかったと思う。勝己くんもわたしのことなんかちっとも気にしないだろう。

だから、ありがとうだ。勝己くんが頑張れって言ってくれたからわたしは頑張れた。でも起点は、心操くんが引っ張ってくれたからだ。


「……」
「心操くん…?」
「…いや。結果出るといいな。何かしら」
「うん…!」


拳を作って気合を込める。結局わたしはまだまだなのだ。誰かに引っ張ってもらえないとロクに頑張れない。一人でできるようになるにはあとどれほどの時間が必要だろう。勝己くんが見てくれるようなしっかりした子にはどれくらいでなれるんだろう。


(……勝己くん…)


クラスメイトの流れに混ざって、歩く足は止めず俯く。
今回のことでわかった。勝己くんはわたしに、何の期待もしていないのだ。


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