C組で一番遅く教室を出るのはわたしだと思う。帰りのホームルームが始まってから支度を始め、先生の話を聞きながらスクールバッグに荷物を詰めていく。今日はもともと半日だから持ち物も少ない。いつもより薄いそれの中を覗き込めば日中一度も日の目を見なかった文庫本の存在が確認できた。今日は英語の予習するから、出番はないかな。そんな危機感のない判断を一週間下してきた。きっと向こう三年間、ずっとこうなんだろう。「起立」号令にハッと立ち上がる。「礼」みんなに合わせてお辞儀をし、すぐに座って支度を再開する。一人だけ座り直したわたしは変に見えるのかもしれない。思わなくもなかったけれど、これに関して後ろめたいことは何もないので、騒めくクラス内をBGMにのんびり手を動かすばかりだ。入学式の翌日からずっとそうだった。
ふと、横から陰がかかる。


「じゃあな」


その声に首を向けると、スクールバッグを肩にかけた心操くんがわたしを見下ろしていた。帰りのあいさつだ。すうっと息を吸いこむ。


「…うん!また明日!」
「は、日曜まで学校来るつもりかよ」


小馬鹿にするように笑った心操くんにハッとする。間違えた、明日は休みだ。失態に頬が熱くなる。「ま、また月曜日…」「おー」口角を上げた彼に柔くはにかむと、心操くんはヒラリと軽く手を挙げ入り口のドアへと歩いて行った。今日は土曜で半日授業だったから、帰りに友達とご飯を食べるんだそうだ。実はわたしもさっき誘ってもらったけれど、断った。入り口付近で彼と合流したロングヘアの女の子と長身の男の子がわたしに手を振ってくれる。それが嬉しくて、わたしはきっとだらしない笑顔で振り返したと思う。

高校最初の休日は特別待ち遠しくなくて、そのことに驚いたのは他でもない自分だった。心操くんを始め友達と呼べそうなクラスメイトができて、高校での目下の不安は解決しつつある。クラスにいても透明人間じゃない、ちゃんと話しかけてくれる友達がいるから不安じゃない。入学当初の孤独感は徐々に薄れてきていた。土曜授業も全然苦じゃなかった。ざわついた教室も居心地悪くない。そんな心境の変化に内心にやにやしながら、帰り支度の締めにとスクールバッグの口を閉じたのだった。
こんなにちゃんとやってけてるわたしを、勝己くんが知ったらびっくりするんじゃないかなあ。だとしたら嬉しいな。我慢できなくて、人知れず両手で口元を覆い隠した。





土曜日も六限まであるヒーロー科にはもちろん昼休みもある。だから勝己くんはこれからご飯だ。一緒に下校したいからわたしもまだ帰らないし、ご飯を一緒に食べる約束もしてある。食堂は開いてるみたいだけど、土曜は光己おばさんのお仕事がお休みなのでお弁当を作ってくれたらしい。なのでわざわざ食堂まで行く必要はないのだ。わたしはお弁当じゃないけど、そもそも午後は待つだけでお腹いっぱいになる必要もないので、家にあった菓子パンとゼリーだけ持ってきた。初めて使うランチトートにそれらと水筒を入れ、廊下を覗き込む。
勝己くんの姿はまだなかった。階段へ向かう生徒はもうまばらだったけれど、彼らしき人物は見当たらなかった。元よりこの一週間、昼休みに勝己くんが先に来てたときに待ってる立ち位置はいつも一緒だった。だからあのガラス張りの壁に寄りかかってないということは、まだA組が終わってないってことなのだ。
お昼の時間なのに閑散としている風景が物珍しくて、休みの日に学校に来ていることをより実感させられた。部活がある人はこういう明るい時間の無人の廊下なんてのは慣れっこなのかもしれないけど、小中と帰宅部だったわたしには記憶にない経験だった。すんと鼻で息を吸う。なんだか芳しい香りがしてきそう。

迷った末、教室を出た。廊下で勝己くんを待つことにしたのだ。お昼休みになって十分経つし、もうすぐ終わるだろう。A組の教室に人の気配はあるから、授業さえ終わればすぐ出てくるはずだ。教室の向かいの壁に背中を預け、後ろのドアをじっと見つめていた。

昨日も今日も、朝も昼も帰り道も毎日勝己くんと一緒にいるけれど、わたしの成長はちゃんと報告してなかった。きっと話せば勝己くんは耳を傾けてくれるんだろうけど、自分の話を聞いてもらうより勝己くんの話を聞きたいから、限られた時間ではそこに辿り着かないのだ。わたしの知らない勝己くんは会うたび増えてしまうから。
ガラス窓から差し込む日差しがわたしの影を作っていた。ぼんやりとした輪郭はわたしの境界線を曖昧にするようで、なんとなく自分の腕を握ってみた。…大丈夫だ、わたし、ちゃんとやってけてるよ。個性の制御も、言われてから気を付けるようになって、心操くんの教科書たちを落として以来暴走してないよ。

次第にどきどきと高鳴る心臓が心地よくて、誰も見てないのをいいことに一人目を閉じ浸る。
勝己くん早く来ないかなあ。


しばらくして、ようやくそのドアが開いた。B組は少し前に終わってぞろぞろと食堂に向かっていったあとで、廊下の人通りはほとんどない。だからドアを開けた人の姿はすぐ目に入る。入るだけじゃなくて、アイコンタクトもしてしまう。一瞬身体が強張って、すぐに解けた。知ってる顔だったからだ。待ち人ではなかったけれど。


「あれっ、ちゃん?」


「出久くん」深緑色のふかふかの髪の毛とそばかすは彼のトレードマークだと思う。流暢に出てきた名前にハッとしたのは出久くんで、彼は「あっ、ちゃんあのさ、」小走りで駆け寄ってきたと思ったら、頭を掻いて何かを話したそうにしていた。どことなく気まずそうなのはどうしてだろうか。そもそもわたしたち、話すのは月単位で久々なのに。結局こないだも、彼を追いかけるだけで直接しゃべることはなかったのだ。勝己くんを呼び止めた彼と夕焼けを思い出す。


「僕の個性のことなんだけど…」
「あ…うん、発現したんだってね、」
「え!そ、そうなんだ!うん、」
「よかったねえ」
「あ、ありがとう…」


ホッと息をついた彼にわたしもへらりと笑う。言いたかったのはそのことかあ。ランチバッグを持った指先を組むと落ち着いた。
無個性の出久くんの個性が発現したって話。すごいよなあ、十五歳で発現することってあるんだ、知らなかった。きっと稀な事例なんじゃないかな。納得いってなかった様子の勝己くんが増強型の個性だって言ってたのは聞いたよ。見てなくても、勝己くんが「負けた」って言うくらいなんだから強い個性なんだろう。そう、出久くんはもう変わったんだ。

もう君は、勝己くんにとっての「邪魔」じゃないんだろう。勝己くんが照準を合わせて見据える対象になった。そうだわたし、まだ君に謝ってなかった。気付いてすぐ、俯くみたいに頭を下げる。


「出久くん、前に、ひどいこと言ってごめんなさい」
「え?」
「わたし、勝己くんが「いい」と思ってることが何より大事だけど」
「うん、」
「…出久くんもヒーロー科、頑張ってねえ」


「…! ありがとう」晴れ晴れとした表情で頷く出久くん。ああわたし、出久くんにどこか仲間意識を持ってたはずなのに。いつからこんなに離れてしまったんだろう。もう全然違うね、勝己くんにとっての出久くんと、勝己くんにとってのわたしはもう、遥か彼方、遠いどこかの星と星みたいに違う。でも、もしかしたら最初から違かったのかもしれない。勝己くんへの感情や正義のありかが、わたしと出久くんは最初から違っていた。それは性別や個性の有無が隔てていたものだったのかもしれないけど、少しずつ距離ができるには十分なことだった。


ちゃんも、頑張って」


でもようやくちゃんとした幼なじみになれたんじゃないかって、思うよ。嬉しいなあ。


「ところでちゃん、なんで…」

「緑谷?だれと話してんだ?」


ビクッと身体を強ばらせる。知らない男の子の声。視線を出久くんから逸らし、ぎこちなく彼の背中越しへ向ける。教室から出てきた男の子が、同じように目を丸くしてわたしを見ていた。さっと逸らす。


「切島くん!あ、えとこの子は…」
「どーしたーって…ア?!緑谷が女子といる?!」
「ハ?!緑谷まさかおめェ…!」


赤い髪の男の子に続くように金髪の男の子、紫色の髪の男の子が顔を覗かせた。もちろん知らない人たちだ。彼らの勢いに圧倒されるわたしは身体どころか口もロクに動かせず、逃げるように俯くことしかできない。「おい緑谷おめェふざけんなよ!」「うわっなに?!」音と廊下にうっすら映る影だけで誰かが出久くんに掴みかかったのがわかる。狭めた視界では、ランチバッグの持ち手を折る手いたずらをするばかりだ。なるべく身体を縮こめるけどもちろん消えられるわけではない。わかる、視線を感じる。知らない人たちがわたしを見てる。カッと顔が熱くなる。頭は真っ白だ。


「昼飯持ってるっつーことはB組の女子か?」
「マジかよ。緑谷も隅に置けねーなァ」


軽い調子の声音に心臓がどっどと脈打つ。嫌な拍動だ。「おい顔真っ赤だぞ。大丈夫か…?」「おーい」覗き込まれそうになって逃げるようにもっと下を向く。汗も出てきた。…い、出久くんの友達かな、すごいな、全然タイプ違いそうなのに、こんなにたくさん友達、できたんだ…。こんなにたくさんの、知らない目が、……。

わたしいたくないから、消えたい、な…。


「邪魔だ退けクソが!」


その声に弾かれたように顔を上げる。拍子にそばにいた赤い髪の男の子がわっと身を引いたのにも気にせず、両目で彼を捉えた。……かつきくん。

「いっ!ご、ごめん…」入り口の前にいた出久くんの足を蹴飛ばした勝己くんは廊下に出てすぐわたしに気付き、そこで現状を認識したようだった。「あ?」わたしもようやく辺りを見回せて、見るとわたしの近くに赤髪の男の子と金髪の男の子が立っていて、さらにそのそばでは紫色の髪の男の子と出久くんが取っ組み合っていたことを知った。


「おー爆豪。食堂行くん?」
「行かねえ」
「なあ聞けよ、緑谷がB組の女子と仲良くなってんの」
「は?」
「抜け駆けとは許せん!!」
「いや、だから…!」


各々発言していく男の子たちに勝己くんも状況が飲み込めないようだ。もう一人の当事者である出久くんもあわあわと慌てていてこの場を解決してはくれなさそうだ。目を合わせないように見知らぬ彼らを見遣り、最後に勝己くんを見上げる。解決はしてないけれど、気味の悪い心臓の音はほとんど治っていた。そのうえでわたしは、逃げた先みたいに、すがるように勝己くんを見ていたのだった。パチッと一度目が合う。


「絡まれたんか」


呆れた表情の勝己くんに真っ赤な顔のまま肩をすくめれば、彼も肩の力を抜いたように溜め息をついた。


「え、なに爆豪知り合い…?」
「わかったら黙ってろクソが」


黒いランチバッグを提げた反対の手をポケットに入れ、勝己くんは金髪の男の子の前を通り彼らから遠ざかろうとした。あ、追いかけないと。脳が処理し足が動く前に、彼の流し目と目が合う。


「行くぞ」


その声はわたしのために空気を震わせた。


「…うん!」


瞬く間に湧いた興奮を隠さず頷き、大きく一歩を踏み出した。よかった、勝己くん来てくれてよかった。後ろから動揺をはらんだ声が聞こえるけれど一切振り返らず、わたしは勝己くんだけを見て、勝己くんの斜め後ろを追いかけた。安堵を確かに感じていて、深くついた息は心臓をそこに落ち着かせた。

ダメだった、なあ。知らない人が怖くて何も言えなかった。わたし勝己くんにダメなとこしか見せてないやあ。思うのに心は晴れやかで、わたしはへにゃりと笑顔を浮かべていた。


「おまえんクラス誰もいねえよな」
「うん、いないよ!」
「んじゃそこで」


1−Cと表示されたクラスプレートのドアから躊躇なく入る勝己くんのあとに続く。言った通り教室は無人で、電気は消してあるのに明るくもしんとしたそこは独特の空気感を醸していた。そして何より。
入ってすぐに立ち止まる。ぼうっとしてしまう。目の前に勝己くんがいて、彼がいるのはわたしのクラスなのだ。勝己くんが、わたしのクラスにいるのだ。

やっぱり、高校でも勝己くんと同じクラスがよかった。

喉まで湧き上がる切望に息が苦しい。胸がいっぱいになって鼻の奥がつんとする。「そこか」そうなってる間にも勝己くんはわたしのカバンを頼りに机と机の間を進んでいく。心操くんじゃないほうの机にお弁当を置き、ガタガタとイスを引いて座った。わたしの、隣の席に。


「なに突っ立ってんだよ。早よ来いや」
「…うん、」


ぐしぐしと乱暴に拭い、勝己くんへ歩み寄る。訝しげに頭をひねる勝己くんの隣の席に腰を下ろし、カバンを傍のフックに掛けてランチバッグを置いた。隣で勝己くんは片足であぐらをかき、お弁当箱を取り出しながら口を開いた。


「バカの相手してんなよ」
「……あ、違うよ、ごめん…」
「なにが」
「う、嬉しくて」
「あ?」


泣いたのがあの人たちに絡まれたからだと思わせてしまったら申し訳ない。びっくりしたし、怖かったけど、違う。それに知らない人に話しかけられたくらいで泣くなんて、きっと情けないことだ。わたしはなんとかぎりぎりの淵でも、勝己くんに本当に見限られたくなかった。だからぎゅうと、膝のうえで拳を作る。


「勝己くんと同じクラスみたいで…!」


勇気を出して本音を口にする。小中と四六時中べったりだったわたしにとってそのことがどれだけ安堵を与えるか、勝己くんはきっと知ってるだろう。ちらっと横目で彼を見遣ると、彼は呆気にとられたみたいに目を丸くしたと思ったら、それからハッと鼻で笑ったのだった。


「おまえにとっちゃそりゃ、安心だわなあ」


大きな口で笑う彼にピンッと背筋が伸びる。「うん!そうなの!」和らぐ頬はてろんてろんに緩んでえへへと緩い声も漏れた。勝己くんがそう言ってくれること自体が安心できるんだよ、寄りかかるの、許してくれてありがとう。


「……あ。つかデクと何話してたんだコラ」
「えっ!えと、個性が出たんだってねーって」


さっきのことを思い出したんだろう。彼らの言葉をよくよく考えればそもそもわたしと出久くんが話していた事実に辿り着く。もともと隠すつもりもなかったので正直に答えた。

「…ああ」そう返した勝己くんの眉間にしわが寄ってしまって、面白くないといった顔をされてしまう。失敗した、かも。高校に入ってから、いいや多分、勝己くんが「負けた」ときから、勝己くんは出久くんの話をするとピリピリするようになった。後ろめたさから俯いてしまう。

思うんなら、勝己くんを傷つけないようにどうにか言ってごまかせばいいのかもしれない。でも、勝己くんに嘘をつくという発想は、わたしにはなかった。


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