朝ご飯もそこそこに、部屋に戻って制服をぼんやりと見つめていた。肩や袖口に深緑のラインが入った灰色のブレザーと、差し色と同じ深緑のプリーツスカート。これに赤いネクタイを結わけば、国立雄英高校の生徒に早変わりだ。紺のセーラー服は捨てるのがもったいなくてクローゼットにとっておいてある。けどきっと着る機会なんて当分、いいや、もう二度とないかもしれない。
ここ最近慢性的に苛まれている、中学生に戻りたい気持ちに身を委ねながらゆらりと一歩近寄る。手を伸ばして、ハンガーごとブレザーを取った。

「ヒーロー科じゃないのか?」担任の先生にわざわざ確認されたのを思い出す。三年のクラスはわたし以外の全員がどこかしらのヒーロー科を第一志望にしたらしい。結果として全員が全員、希望通りの学科に行けたかは知らないけど、少なくとも明確な理由もなく普通科を、それもあえてヒーロー科の超名門、雄英高校を第一志望で出願したのはわたしくらいだった。
ヒーロー科が超高倍率の人気学科だからといって普通科や経営科が狙い目かというとそんなことはなく、入試のボーダーラインはそこそこ高かったので勉強は死に物狂いだった。ほぼ丸々一年頑張ったから、なんとか合格することができたのだ。


「………」


時計をちらりと見る。そろそろ着替えなきゃ、家を出る時間に間に合わない。両手で持ったブレザーを見据え、意を決してベッドに放り投げた。



「行ってきます」


三月に制服の採寸を測りに行って以来着るパリッパリのそれを身にまとうわたしは、新調したスクールバッグを肩にかけリビングを出た。お母さんのいってらっしゃいとの声を聞きながら、玄関で待つ同じく新しい茶色のローファーへ足を入れる。今日は入学式だ。何もかも真新しいものに包まれたわたしは、高校生になる。

金色のドアノブに手をかける。ひんやりとしてるはずの冷たさが伝わってこなかった。それに気付かないふりをして、ドアを押し開ける。まばゆい日の光を浴びる。でも、晴れやかな気持ちには、なれなかった。浮き足立つ両足を叱咤し動かす。ゆっくり歩いてられなくて走ってしまう。一人でいたくなかった。肩にかけたカバンの持ち手を縋るように握る。走りにくいけれど、もうわたしはどうしたらいいのかわからなくて、とにかく、とにかく早く、会いたかった。心細くて泣きそうだった。


「かつきくん、」


無意識にこぼれていた。中学までの通学路はもう通らない。今回の彼の通学路にもわたしの家はない。だから絶対に置いてかれないよう、いっそ勝己くんの家まで行くつもりだった。
でもそんな心配はいらなかった。ちょうど勝己くんが家を出たところに、遭遇できたのだ。「勝己くん!」今度ははっきりと名前を呼ぶ。アスファルトの道路に出た彼がわたしに向く。


「おう」


両手をポケットに入れた勝己くんが何でもないように返してくれるのが嬉しい。同じ制服を着てることが嬉しい。向かう先が一緒なのが嬉しい。さっきまで自分の表情がカチコチだったとわかるくらい、今朗らかな笑顔を浮かべられていた。


「おはよう、やっぱり勝己くん制服似合うね!」
「何回言ってんだよ」


駆け寄ってから言うとわたしに合わせて歩き出した勝己くんがハッと小馬鹿にしたみたいに笑った。
勝己くんの言う通り、彼の制服姿はいくつか候補日がある中同じ日に行って採寸した際に目に焼き付けるくらい見た。その日の帰りにわいわいと褒めちぎったのを、勝己くんは言ってるのだ。でも何度でも言いたくなるよ、学ランもかっこよかったけど、雄英の制服は小洒落てるから勝己くんが余計かっこよく見えるのだ。ネクタイはせず、第一ボタンを外した楽そうな着こなしもよく似合っていた。中学でも第一ボタンを閉めたことは滅多になかったのを思い出す。だから、採寸のときにネクタイを締めた貴重な勝己くんを思い出すと、自然と顔が緩んでしまうのだ。


あの日は幸せだった。光己おばさんに言われて嫌々、でもきっちり結べていた勝己くんとは反対に、初めて触ったネクタイに手も足も出なかったわたしはそれを片手に持ったまま試着室から出た。呆れたように笑う母の身振り手振りの結び方を見ても理解できず、はてなマークを頭に浮かべる始末だった。
そんな風に持て余していると、一緒にいた光己おばさんに制服の調子を問われていた勝己くんが、くるっとわたしに向いた。


「貸せ」


差し出した手に、わたしはポカンとしながらも、迷わず赤色のネクタイを乗せた。勝己くんはそれをぎゅうと握りこむと真正面に立ち、わたしの首元へ手を伸ばした。中途半端に立っていたワイシャツの襟を綺麗に立て直し、首裏から前へ今さっき渡したネクタイを掛ける。


「ここ持て」


首に回された手の感触に心臓をどきどきさせながら頷き、言われた通り彼が片手ずつ持ってる端のほうを代わりに持った。左右の長さがアンバランスで、これでいいのかなと思いつつ口には出さないでいると、ネクタイを持った手のうえから勝己くんのそれが重ねられた。暖かくて硬い皮膚の手だった。


「こっちのデカいほうを長くとって、小せえほうの上から一周」


頷く前に勝己くんがわたしの手ごとネクタイを動かしていく。なんと、手も足も出なかったわたしに、勝己くんは結び方を手取り足取り教えてくれるのだ。顔は真っ赤だろう。頭一つ分背の高い勝己くんがわたしの首元を見下ろしているのが気配でわかる。勝己くんの優しさは無下にしまいとの意思で何とか覚えようと二人の手元をじっと見るけれど、もう、なんというか、いっぱいいっぱいだった。


「んで、輪っか通してテキトーに整えて完成。簡単だろ」


勝己くんの説明のもと、魔法のように結ばれたネクタイを見下ろす。最後はわたしは手を離していて、勝己くんの手がきゅきゅっと結び目の形を整えてくれた。その手が離れてから、そこへそっと触れる。「……うん…」正直、一回じゃ物覚えの悪いわたしには難易度の高い代物だ。しかも緊張で若干記憶がぼんやりしてる。でも、とにかく、わたしの首元には完璧に結ばれたネクタイがあるのは確かだから、家に帰ってちゃんと練習しないと。だって四月から、一人で結べなくちゃいけないんだものね。
「……」わたしが煮え切らない返事をしたからか、勝己くんは口をムッと尖らせたみたいだった。視界の隅でそれを捉え、慌てて顔を上げる。教えてもらったのに態度悪い!「あ、か…」急いでお礼を言おうと口を開く、と、勝己くんはおもむろに自分のネクタイの結び目に指を引っ掛けたと思ったら、シュルリと解いてしまった。思わず目を丸くする。


「かつきくん…?」
「ん」


短く返事をしながら、勝己くんは解いたそれを再び自分の首で手早く結び直したではないか。パパパと鮮やかな手つきはまるで中学の制服もブレザーだったと錯覚させるほどで、わたしは目をしばたいて呆気にとられるばかりだった。す、すごいなあ、勝己くん、行きの車では「ネクタイいらねえ」って言ってたのに、…あ、でも結び目、胸の位置くらいにできちゃってる。あれじゃいくらなんでも不格好じゃ……。
そんな心配もよそに、勝己くんはその結んだネクタイをすぐさま首から取った。結び目がさっきより低い位置で作られたおかげで頭をすんなり通る。「ほれ」ずいと差し出されたそれに、首を傾げてしまう。


「これやるから練習しとけ」


「……!」脳が意味を理解するのに、三秒はかかったと思う。
わたしは信じられないと言わんばかりに目を見開いた。勝己くんが、わたしがネクタイを結ぶ練習のために、これを貸してくれるというのだ。確かに、見本があったほうが絶対わかりやすい。おずおずと手を伸ばして両手で受け取る。……勝己くんのネクタイだ。


「あ、ありがとうー…!」


火照った頬と潤む目で心からのお礼を伝える。勝己くんは、おう、と片方の口角を上げると、「もう着替えっからな」と光己おばさんに言って試着室へと踵を返すのだった。それをぼんやりと見つめる。


ちゃんの相手してるときのあの子はいつまでも可愛いのにねえ」
「勝己くん離れより親離れのほうが早そうだわあ」


そばで母親二人がそんな風にこぼしたのが耳に入って、気恥ずかしくなったわたしも逃げるように試着室へ戻ったのだった。





にこにこと見上げながら足を動かす。勝己くんのネクタイは今もわたしの部屋にある。いつ返せばいいかと聞いたら、使わねえからずっと持ってろと返されたので、お言葉に甘えて春休みの間ずっと見える場所に置いていた。


「勝己くん!」
「あ?」
「ネクタイ、どうかな?!」


前を留めたブレザーから引っ張り出して見せる。そう、採寸の日から何度も練習した成果を今日ようやく勝己くんに披露するのだ。頑張って、今ではそんなに時間をかけないでスルスル結べるようになったよ。結び目の形も勝己くんのみたいに綺麗な三角形を作れるようになった。自画自賛できるくらいには自信があったので、勝己くんにぜひとも見てほしかった。
わたしと合わせていた視線を少し落とし、首元に目をやる。それから、にやっと笑った。


「やればできんじゃねえか」


そう言って、伸ばした手がわたしの頭をわさわさなでる。勝己くんに褒められた。嬉しくて頬が緩んでしまう。ああ、頑張ってよかった。勝己くんの一言をもらうために、わたしはこの一ヶ月頑張ったのだ。

だってわたし、しっかりした子になりたい。一度は諦めた目標を、勝己くんの目の届く場所にいられるわたしは、今度こそ掲げているのだ。


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