わたしの世界は勝己くんを中心に回っている。


 朝の目覚めはあんまりよくなかった。深夜の三時過ぎまで起きていた記憶があるからちっとも眠れた気がしない。それでも今日は学校なので、重い身体を起こし、さらに重い顔を上げる。ついにこの日が来てしまった。

 やだなあ……。

 一戸建て五畳半の一人部屋には南の窓に並行してベッドを置いている。さらにそれに対して並行、部屋の入り口に垂直になる位置に、ちょうど畳一枚分の大きさのクローゼットがある。中途半端に両開きしてるから洋服が入ったケースやコートがちらりと見えている。閉めようにも、向かって左側の可動扉の上にハンガー掛けが掛けられているので、完全に閉じることができないのだ。
 そこに掛かっている一式の制服を、ぼんやりと見やる。もう見慣れたセーラー服。一年着たからパリッとした清潔感は失われているけれど、春休みにクリーニングに出したおかげで気持ち綺麗に見える。覆っていたビニールは昨日の夜に嫌々取った。制服に直接触れたことにより一層実感してしまったわたしは、ベッドに潜り込んだものの寝付くことができなかった。泣き疲れたはずの目はまたじんわりと潤み出して、結局三時まで枕を濡らしていた。

 そう今日は始業式だ。

 一階から母の叱咤が耳に届き、のっそりとベッドから降りる。吐きそうになった溜め息はなんとか飲み込んだ。



「早くしなさい。遅刻するわよ」
「はあい」


 ダイニングテーブルに着き、ご飯とお味噌汁をちびちびと口に入れる。明らかに浮かない顔をする娘に母は呆れた顔を隠さない。言いたいことはわかるよ、でもそんな気分には到底なれないんだ。カウンターキッチンから覗き込むその人にわたしは、やはり気だるげに顔を上げた。


「勝己くんと同じクラスになれるかなあ〜…」


 まだ寝ぼけている脳内に占めるのはここ最近の懸念だ。心配すぎて二年生になんかなりたくなかった。
 幼なじみの勝己くんとは一年生のときは同じになれた。でも二、三年も同じになれる保証は誰もしてくれていない。もし離ればなれになっちゃったら。不安は付きまといわたしを束縛していく。春休みも思いっきり楽しめた記憶がない。
 思えばわたしは、クラス替えを控える春休みは毎年新学期のことを憂いている。そのくらい、勝己くんと同じクラスになれるかどうかはわたしにとって、かっこよく言うと、死活問題なのだ。


「あんた二年生にもなるんだから、そろそろ勝己くん離れして一人立ちすれば?」
「無理だよー…!」


 反抗してみるも母の心には響かなかったようで何も返されなかった。それをいいことにわたしも言い直すことはしないで、黙って白いご飯を咀嚼する。ちっともお腹は空いていない。壁掛け時計に目をやると、家を出ないといけない時間まであと十五分しかなかった。迷わず箸を置き、ごちそうさまと言って席を立つ。母の言葉が頭に残って、知らず知らずのうちに口を尖らせていたことに、洗面台の鏡に写る自分を見て気がついた。ピッと真一文字に結びなおして、じっと目の前の己を見返す。学校行きたくないって顔してる。わたしは自分に甘いので、仕方ないよねって思ってしまう。

 勝己くん離れなんて、無茶言うよ。





 二週間ぶりのセーラー服に袖を通し、準備してあったスクールバッグを持って部屋を飛び出す。今日はいい天気だ。まぶしくて暖かい日差しに目を細めると、すぐ進行方向に勝己くんの後ろ姿を見つけた。急いで駆け寄る。


「勝己くん!」


「おお」振り向いた勝己くんの短い返事に今日初めての笑顔を浮かべる。家が近所の勝己くんとは、もちろん一緒に行く約束なんてしていない。大体の出発時間は本人に聞いて教えてもらったから、それに合わせているだけだ。勝己くんは遅刻なんてしない優等生だから、始業式にも余裕を持って着くように出る。朝が弱くて寝坊ばかりのわたしの面倒をみる習慣が彼の中についているのか、ストーカーじみたことをしているわたしを勝己くんが咎めたことは一度もなかった。
 スクールバッグを肩に掛け両手をスラックスのポケットに入れて歩く彼。その斜め後ろについて行く。鈍い金色を太陽がキラキラと輝かせるのが綺麗で、わたしは勝己くんの髪の毛すらすきだった。


「もう平気なのかよ?」
「え?」
「俺とおんなじクラスなれなかったらどうしようって、昨日まで散々泣いてたじゃねえか」


 小馬鹿にしたように笑う勝己くんの言葉でハッとする。忘れていたわけじゃなくて、昨日の醜態を思い出したのだ。頬が熱くなるのを感じながら、眉をハの字に下げる。ふるふると首を振る。


「大丈夫じゃないよー…!勝己くんと離れちゃったらわたし、ほんとにどうしよう」
は俺がいねーとほんと駄目だからなあ!」


 それにはうんうんと強く頷く。ケラケラ笑う勝己くんを瞳に焼き付けて、つられて力なく笑った。
 昨日、たまたま家に来た勝己くんを捕まえて、びーびー大泣きした。勝己くんは嫌な顔をしていたと思うけれど、泣きじゃくるわたしをほっぽったりはせず、泣き言に軽い相槌を打ってくれた。それからなんだかんだお昼ご飯のオムライスをうちで食べて、 わたしの気が済んだ夕方頃帰って行ったのだった。春休み最後の日はそうやって終わった。

 勝己くんといるととても安心する。何をやっても半人前のわたしは、何でもできる勝己くんに頼りきりの人生を謳歌しているのだ。


「今日もまたお母さんに、勝己くん離れして一人立ちしろって言われちゃったよ」
「一人立ちなんて自然とできるもんだろ」


 平然と言ってのける勝己くんに悪い気はしない。それはきっと、しっかり者の勝己くんにしかできないことだよ。にこりと笑うだけで口にはせず、わたしは彼との通学路を軽やかに歩いていくのだった。





 途中で勝己くんの友達二人とも合流して、学校には彼を先頭に四人で着いた。新二年生と新三年生の二学年だけで、少しだけゆとりのある体育館。退屈な始業式を終えたあと、担任の先生の発表がなされ、三年生は教室に戻っていく。二年生だけが残った体育館では、学年主任の先生がマイクを持ち、「お待ちかねのクラス発表です!」と高らかに宣言した。


「後ろを見てください!」


 生徒が一斉に振り向く。いつの間にか、体育館の入り口付近の壁に模造紙が四枚くらい貼られていた。「自分のクラスを確認してから教室に行ってください。危ないので走らないように!」ぞわっと心臓が浮く感覚。ついにクラス替えだ。……怖い。解散の号令がなされるなり、二年生はわいわいとざわつきながら我先にと小走りで駆け出す。こんなときまで鈍臭いわたしは沸き立つ周りに押されるようにそちらへ向かうものの、完全に遅れを取っていた。勝己くんはというと、わたしの前であぐらを掻いて座っていたはずがすでに何メートルも先を歩いていて、群がる同級生を掻き分け難なく張り紙の一番前に到達していた。


「カツキおんなじクラス。今年もよろしくな」
「おー」


 ざわざわと騒がしい周囲の中、今朝も一緒に来た幼なじみの男の子が勝己くんとそんなやりとりをしていた。それをなんとか耳で拾いながら、わたしもせっせと勝己くんを目指して人を掻き分ける。けれどやはり張り紙前の何列かはガードが固く動いてもらうことができない。見たなら早くどっか行ってくれ…!思いながら、苦し紛れに後ろ姿を呼ぶ。


「かつきくん、」


大きくもなかったその声が届いたのか、ふっと、勝己くんが振り返った。何でもないような目と合う。勝己くんはわたしを捉えると、ごく自然に、口を開いた。


「おんなじクラス」


 どきっと心臓が跳ねる。そのタイミングでわたしの前にいた男の子がいなくなったため、またもや押されるように前に出た。勝己くんの隣まで来るとようやく張り紙の全体が見える。「ほれ」勝己くんが指差す先にはわたしの名前があった。それから少し目を滑らせると、同じ列に勝己くんの名前を見つけることができた。……。すうっと息を吸う。


「よかったあ〜〜…!!」


 勝己くんとおんなじクラス!安堵と感激のあまり涙目になってしまい、口を両手で覆う。勝己くんを挟んで向こうにいる幼なじみも「よかったなあ」と一緒に喜んでくれる。うん、本当によかった、ありがとう…!誰に伝えればいいのかわからない感謝の言葉を心の中で唱えて、目尻の涙を手のひらでぬぐった。
 ……よし、張り紙はもう用済みだ。勝己くんと自分のクラスさえわかれば他はどうでもいいや。先生が誰かも見てないけれど、そんなことも気にならない。どうせ今から行くクラスで嫌でも知ることになるんだから。
 教室に向かうべく足を踏み出した勝己くんについて行く、と、彼はすぐにピタリと足を止めた。どうしたんだろう?見上げると、彼の視線は今さっき見ていたクラス発表の張り紙に向けられていた。


「出来損ないのデクも一緒かよ」


 ボソリと呟かれたそれに「ひっ…」と声が反応する。くるっと振り返ると、同級生の陰に隠れて小さく縮こまる出久くんがいた。
 同じように振り返った勝己くんは獲物を見つけたかのように目をギラつかせ、ポケットに両手を入れたまま彼にズンズンと近寄った。怯える出久くんの真正面に立ちはだかり、ぽんっと右肩に手を置く。ビクッと跳ねる肩。


「よろしくナードくん」


 にっこりと凄みを利かせる勝己くんと顔を真っ青にする出久くん。幼なじみの男の子はわたしの近くで「ご愁傷様」と手を合わせた。勝己くんはあいさつが済むとすぐにくるっと踵を返し、こちらに戻ってくる。そのまま、わたしたちの横を通って入り口に向かう。彼の表情は、出久くんのことなんてもうすっかり忘れている風だった。
 わたしは当然のように追いかけながら、ちらっと振り返ってみた。出久くんはまだビクビクと怯えながら勝己くんの背中をうかがっているようだった。その視線がわたしに向かないうちに前を向く。彼に向けるべき感情がわからないから。

 幼なじみと呼べる彼も数少ない近しい人間なのに、いつの間にかわたしは、出久くんと奇妙な溝をつくっていた。


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