四、 夕方の仕事がひと段落したので自室で一眠りしようと廊下を歩いていた。西日が差す廊下はまだ明かりなしでも十分明るい。でももうしばらくしたら点けないとなあ。ふああと大きなあくびをしながら歩いていると、通路の先で人が二人、何やら話しているのに気が付いた。近付いていくとそれが女中の先輩と花宮さんであることがわかり、そのうちこちらを向いていた先輩はわたしに気付くと表情を明るくした。 「、丁度よかった」 「?はい、何でしょうか」 先輩の手招きに花宮さんもこちらを振り向く。一瞬だけ目が合い、すぐにわたしが逸らした。先輩の話を聞くためだ。花宮さんは少しだけ身体の向きを変え、わたしはその空いた場所に立ち止まる。今気付いたけれど、花宮さんは両手で重そうな箱を抱えていた。なんだろうと思いつつ三人が向き合う形となったところで、先輩はにこにこしながら手のひらで花宮さんを指した。 「旦那さまが新しいお皿を買われたらしくて。で、まだ使わないから一旦蔵に運ぶのを花宮さんに頼んだのよ」 「あ、お皿なんですね、それ」 「そうそう。でも花宮さん蔵の場所知らないから案内しようと思ったんだけど、私今から夕ご飯の当番なの」 「……?」 「だから、、代わりに花宮さんに案内して差し上げてくれない?」 「あっ、はい!」 呼ばれた訳はそういうことか。二つ返事で頷き、それにほっとした先輩はそれじゃあよろしくねと言って背を向ける。すぐに花宮さんが申し訳なさそうに笑みを浮かべ、「よろしくお願いします」と箱を抱えたまま小さくお辞儀をした。学校にも慣れ家の仕事もまた手伝うようになった花宮さんはいよいよ熟練の使用人のようで、もうほとんどのことは人に聞くことなく完璧にこなせるようになっていた。元より桃井家の使用人というのがほとんど何十年も桃井家に仕えているような有能な人たちばかりなので、花宮さんは一人圧倒的な若さでそんな人たちと並んでいるようだった。 それでも物置である蔵に行く機会なんて滅多にないから、まだここに来て一、二ヶ月の彼が知らないのも無理はない。厨房の方へ姿を消した先輩をなんとなく見送ったところで、こっちです、と足を一歩踏み出した。 「さすがに二年も働いてりゃ知らないわけねえか」 ……え?いま、後ろから声が? 反射的に振り返る。そこにはさっきと同じように箱を抱えた花宮さんしかいなかった。あれ、何だろう、幻聴?しかし聞きなれない荒い言葉遣いは確かに耳に残っている。わたしはロクな思考もせずただ呆けたまま、吸い込まれるように顔を上げた。そして硬直する。見上げた先の花宮さんは、今まで見たことのない、ひどく冷めた表情をしていたのだ。 「目に余る使えなさだったからてっきり何もできないもんかと思ってたぜ」 「……え、」 「なんだよ。…ああ、俺がこんな奴だとは思わなかったって?ふざけんな。なんでおまえみたいな奴にまでいい顔しなきゃなんねえんだよ。笑わせんな」 わたしは目を見開いたまま、目の前の人間を凝視するしかできなかった。…この人は、本当にあの花宮さんなのだろうか。走馬灯のように今まで見てきた彼が思い出される。記憶の中の彼と目の前のこの人はまるで別人だった。遅れて耳に届いた彼の言葉を処理し、そうして気が付く。花宮さんとわたしが一対一で話したのは、これが初めてだと。 全身が緊張して息が苦しい。自分の中の花宮さん像がガラガラと崩れて行く感覚に襲われた。そこから姿を現したのは、想像もしていなかった愛想の一つもない冷たい人間だった。重そうだった箱を小脇に抱えた花宮さんは壁に寄り掛かり、気だるそうにはあ、と息を吐いた。 「は、花宮さん、だましてたんですか…」 「オイオイ人聞き悪いこと言うなよ。世話になる人らに敬意を払うのは当然だろ」 わたしの震えた言葉を嘲るように笑った花宮さんにハッとして、俯いた。言いたいことが、わかってしまった。彼は他の人には敬意を払って普段の下手に出るような態度でいるけれど、わたしにはそうする必要がないというのだ。バカにされてる、わかるのに、否定する台詞はすっかり浮かんでこなかった。悔しいことに、世話になる人の範疇に入っていないことに納得してしまっている。だってわたしは本当に、花宮さんに比べて何もかも劣っているのだ。 ぎゅうと着物を握る。わたしは今まで、ここで働いてきた二年間をたった数週間であっという間に追い抜いていった花宮さんに尊敬の念すら抱いていたのだ。謙遜の姿勢を忘れない、よくできたいい人だと思っていた。それなのにまさかこんな人だったなんて、思ってもみなかった。よほど絶望した表情を浮かべていたのだろう、わたしを見下ろす花宮さんは吐き出すように笑い、仰々しく首を傾けた。 「何を期待してたか知らねえが、残念だったなあ?もしおまえが誰かに告げ口したとしてもこの家におまえの言葉素直に信じる人間はいねえよ」 「そんなこ、…」 「そんなことないと思ってんのか?フハッ、めでたすぎんだろおまえの頭」 そんなことないと、思いたかった。けれど脳内を巡らせてみても、この家での花宮さんの人望はもはや確固たるものだと思えてしまい、そしてそれを覆せる気はちっともしなかった。 「まあ安心しろよ。べつに何か企んでるわけじゃねえし」 おまえにまで猫被んのが面倒なだけだから。どうでもよさそうに言う花宮さんから目を逸らす。そうだとしたって、わたしはこんな人と関わりたくない。怖い。……さつきちゃん、そうだ、さつきちゃんなら、わたしの話を聞いてくれる。ぱあっと希望の光が差した。「ああ、それと」その声に再び目を合わせると花宮さんは続けた。 「お嬢さんはもう知ってるから」 いよいよ思考回路は使い物にならなくなる。その台詞が一体何を意味しているのか、考えられない。完全に固まってしまったわたしに、彼は満足げに目を細めた。 「これからよろしく、使えない女中さん?」にこりと笑ったその笑顔はもう、前までのそれとは同じに見えなかった。 冷酷で声も出ないほど |