三、

「では、いってきます」


今日が高等中学校の始業日らしく、書生の花宮さんは深緑の書生服を身にまとい綺麗なお辞儀をして見せた。玄関には奥さまとさつきちゃんが見送りにきていて、彼は顔を上げると、出勤時間の被った旦那さまと一緒に戸をくぐったのだった。
高等中学校の入学は尋常中学や小学校と違い十月で、花宮さんは卒業後こちらの生活に慣れるため三週間前から桃井家に来ていた。そのおかげもあり彼は自分の身の回りのことだけでなく使用人の仕事や旦那さまのお手伝いまでほとんど完璧に身につけ、十月に入ってからは学校の予習と上手に両立しているようだった。たった二十日ちょっとで目覚ましい成長を遂げた花宮さんをわたしは尊敬すると共に、彼に羨望の眼差しを向けざるを得なかった。何人かの女中の先輩と一緒に花宮さんと仕事をすることがあった際自分より彼の方が手際がいいと思ったのは勘違いじゃない。聞いてみると彼曰く「実家でよく家事の手伝いをしていたから」だそうで、それなら仕方ないかなと自分を慰めたものだ。これがきゃりあというやつだろう。彼の十七年間は裏切らない。
でもわたしだってもう、丸二年この家に従事している。なのに一向に成長が見られないことについては落胆するしかない。わたしの二年間は平気で裏切るのだ、とかいって、なんだか人のせいにしてるみたいで良くないなあ。俯いていると静かに閉められた戸の音がほんのわずか耳に届いた。顔を上げしばらく無言の戸を見、隣にいるさつきちゃんに向く。花宮さんは仕事ができるだけじゃなくて、所作も美しいと思う。ここからしばらく離れた町の一般庶民だと言っていた彼が一体どこで身につけたのだろう。


「さつきちゃん、花宮さんって綺麗だよね。ほら、戸を閉める動作とか」
「ああ、うん。お母さんが茶道の先生なんだって。お点前も一通りできるらしいよ」
「へえ、そうなんだ」


だからあんなに綺麗なのか。随分納得しながらもう一度戸の方を向き、それから洗濯物を干しに行こうと踵を返し、たのだが、さつきちゃんがそこから動こうとしないので不思議に思い首を傾げた。
さつきちゃんの横顔はどこか晴れない。その表情を前にも見た気がした。どこで見たんだっけ。記憶を巡らせ、辿り着く。いつか、大輝くんがしていた表情と同じだ。眉をひそめ、口を噤んで何かを考えている顔。あのときは、…そうだ確か、花宮さんについて聞かれたんだった。花宮さんをどう思うかと聞かれて、わたしはいい人だと思うと答えた。あれから大輝くんと何度か会ったけれどあの日以来花宮さんの話題は上がらなかったからすっかり忘れていた。けれど、もしかしてさつきちゃんも花宮さんのことで何かあったのだろうか。

奥さまは相変わらずにこにこしながら花宮さんを見送っていて表情を曇らせている様子もなかったし、旦那さまはとても楽しげに花宮さんと家を出た。この三週間で花宮さんはすっかりこの家に馴染み、二人からの信頼も厚い。ここに来る前から顔見知りではあったらしいから特別早いわけでもないのだろう。それに、彼の人柄の良さなら信頼も当然だと思う。ここまで考えて、そうだ、と得心する。勝手に決めつけてしまったけど勘違いしてるんだ。さつきちゃんが難しい顔をしているのは何も花宮さんのことだとは限らない。もうすぐにさつきちゃんも登校の時間だ。学校で何か気分の乗らないことがあるのかもしれない。そう思い、隣の彼女を見上げて問い掛けた。


「さつきちゃん、どうかした?」
「ん?…んーん。なんでもないよ」


きょとんとしてしまう。なんでもなくないように見えるのは気のせいじゃない。茶を濁す物言いの彼女は珍しかった。目をぱちぱちと二度瞬かせ、「そっか」けろりと笑う。さつきちゃんに何かあったのなら、何でも知りたいと思う。けれど彼女が言わないのなら、わたしにとってもそれが正しいのだろう。さつきちゃんの判断が間違いだと思ったことは生まれてから十四年間、一度もないのだ。


憂いの子ども