二、

晩ご飯の支度で必要なのに台所の水道じゃ足りないからと頼まれ、中庭の井戸で水汲みをしている最中、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。女中の誰かだろうかと思いながら顔を上げる。と、そこにいたのは、予想に反して大輝くんだった。


「大輝くん」
「おう。…呼び捨てでいいって言ってんだろいつも」
「もう今さらだよ、困る」


大輝くんはさつきちゃんと幼なじみで、桃井家と同じく上流階級の名家である青峰家の一人息子だ。その彼は今年の夏季休暇も外でたくさん遊んだのだろう、日に焼けた肌が目立っていた。呼び方を変えろというのは昔から言われていたけれど、将来こうなることがわかっていたのに気軽に呼び捨てなんてできるわけがなかったし、性分なのか呼び捨てというものが元来苦手だったわたしは彼の要求をのらりくらりとかわしてきたのだ。さすがに十四になった今でも言ってくるとは思っていなかったので、食い下がるなあと苦笑いをすると大輝くんはわかりやすく顔をしかめ、けれどそれ以上は何も言わず近くまで来ると井戸の屋根を支える柱に寄り掛かり両手を頭の後ろにやった。何度言われたって嫌な気分にはならない。むしろそんなに言ってくれるくらいなら最初から呼び捨てにしてあげたらよかったと思うくらいだ。バシャバシャといくつもの桶に水を汲んでいく。そういえば大輝くん、また勝手に家に上がったのかな。いつものことだとはいえ、君がどこにいるのかお家の人が心配になるのではないだろうか。
さつきちゃんと生まれた頃から一緒にいたわたしは大輝くんとも気心知れた仲であると認識している。もちろん交流の機会は彼女ほどではないけれど、わたしが使用人として仕事に従事するようになった今でもこうして分け隔てなく接してくれる彼こそがその認識を裏付けてくれていると思う。学校を高等小学校で最後にしたわたしは新しい交友を築く機会はほとんどなくなったけれど、それでもさつきちゃんがいればそんなことはどうでもよかったし、大輝くんとも疎遠にならなかったので不満はなかった。あとは仕事を完璧にできればいいんだけどなあ、と溜め息をつく。今日も自分の足に引っ掛かって食器をぶちまけたのだ。


さ、花宮真のことどう思う?」
「……あの書生さんのこと?」
「そ。そいつ」


突然投げ掛けられた質問はまったくの予想の範囲外だった。一瞬誰のことかもわからなかったくらいで、けれど最近聞いたその名前はすぐに彼の顔を思い起こさせた。
二週間前にやってきたその人は桃井家に温かく迎え入れられた。彼についてはさつきちゃんが教えてくれ、それによるとどうやら彼はこの家に住む代わりに学業の合間で家事や旦那さまのお仕事の手伝いをする約束で下宿することになっているのだそうだ。花宮さんの親戚の友人に旦那さまが当たるらしく、礼儀正しくとても優秀な彼を気に入った旦那さまが花宮さんの高等中学校入学を援助し、東京にしかない大学進学を見据えここに住まわせることを受け入れたのだそうだ。それを聞いて、そんな高い志を持っているのかと舌を巻いた上、さつきちゃんがさらに「今日は荷ほどきしなきゃだからお手伝いはしないでいいって言われてたよ」と言っていた初日に旦那さまの仕事内容について説明を聞く花宮さんの姿を見かけたときは驚いた。
他にも飲み込みが早く使用人の仕事にも早々に慣れ、学生の本分である学業を中心としながらも入学前のこの時期は自由な時間が多いらしく、積極的に家事などの手伝いをしているらしかった。というのも、わたし自身は今のところ花宮さんと関わる機会がほとんどなく、よくわからないというのが本音だった。けれど女中の先輩の話を聞いたり、ときおり見かける彼は誠実でしかなかったので自然とその通りの人物像が出来上がっていっていた。
しかしまさか大輝くんの口から花宮さんの名前が出てくるとは思わなかった。首を傾げ、「いい人だと思うよ」思ったままに答えると、大輝くんは頭の後ろで手を組んだままこちらを向いて少しだけ顔をしかめた。


「おまえあいつと話したことある?」
「う、ん…?一回だけなら。花宮さんがここに来た日に」
「ふーん…」
「え、どうして?」
「いや。とりあえず気ィ付けとけよ、あいつには」


大輝くんは、そんだけ、と言って柱から背中を離し、さっき来た方へと歩いていった。わたしはというと言われたことにポカンとしてしまい、それからハッと我に返って声を掛けた。


「大輝くん」
「あ?」
「今日は晩ご飯食べてかないの?」


問うと彼はニッと笑って、「親に怒られんだよ」と言い、また背を向けたのだった。怒られると言いながらちゃんと帰るんだなあ。大輝くんは最近お母さんとよく喧嘩すると言っていたけれど、本当は優しい男の子なのだ。思わず笑みがこぼれてしまう。わたしは周りの人に恵まれているなあとしみじみ思うよ。

そうやって一人和んでいたから、大輝くんの忠告なんて気にも留めなかったのだ。


隣人はおうじさま