「ボーダーの顔がボーダーに恨み持ったらまずいよ」


 迅に開口一番に言われたのがそんな忠告だったものだから驚いてしまった。
 珍しく本部に来ていた彼とはたまたまラウンジで遭遇し、避ける間柄でもないので向かいの席に座らせてもらうことにした。ターコイズのジャージを身にまとっている様子からして防衛任務の前後だろう。紙の容器に半透明のプラスチックのフタをした飲み物が何なのかはわからない。
 パチクリと瞬かせてしまう。当の本人は別段深刻そうな様子もなく、至って普段通りの飄々とした態度でいる。思考を巡らすと、すぐに話の中枢が思い当たった。テーブルの上のコーヒーから手を離し、彼をじっと見据える。


「…未来予知か?」
「え?いやごめん、そう思っててもおかしくないと思ってたからさ」


 視えたわけじゃないよ、と非武装のアピールのように両手を挙げる迅に、なんだと胸をなでおろす。どうやら彼のサイドエフェクトを働かせた結果ではないらしい。本当に驚いた。この先俺の心境に大きく変化が起きるのかと思ってしまった。
 だって俺は現時点で、ボーダーを恨む気持ちは持ち合わせていないのだから。ほっと息をついてから、目を伏せたまま斜め下にやる。


「恨んでなんかないさ。記憶封印措置のことは…トリガー技術の保護のためには必要だ」
「そう」
「俺が恨むとしたら、自分のことだ」


 これは本心だ、はっきりしてる。そして自分の中ではケリがついていることも。

 二ヶ月前のあの日のことは今でも鮮明に覚えている。あの日、本部へ向かうと入れ違うように駆けつけたのは迅と桐絵だった。迅は呆然としていた俺の近くへ来るなり「今日の記憶は全部消されるよ」と、簡潔に告げた。それは俺の一縷の望みをあっけなく断ち切る一言だった。俺はうまく反応できなかった。尋常じゃない喪失感に見舞われ、正直立っているのもつらかった。迅が来る前だったが、木虎にも大丈夫かと心配させたほどだ。余程大丈夫そうに見えなかったのだろう。何をそんなに動揺することがあったのだと思ったのかもしれない。木虎には俺とが友人のように見えただろう。それは決して間違ってはいなかったが。
 迅にはわかっていたのだろう。不要なことは一切問わなかった。ボーダーの記憶封印措置は都合のいいものじゃないし、かといって融通が全く効かない制度でもなかった。場合によっては警戒区域に立ち入っても消されないことがあるし、消されてもほんの一部で済むこともある。ボーダーの入隊を希望するならその場で話が進むこともあるらしい。将来有望な戦闘員となることが予想されるならなおさらだ。
 しかしの場合そうはいかなかった。あらゆる融通を効かせる余地のない、もはや特殊であるといえる事例だった。その日会ったばかりの隊員である俺との記憶は消した方が話は早いし都合がいいと、判断された。俺と会ったことを、彼女は誰にも言っていなかったそうだ。それに加えて警戒区域に立ち入った理由、警戒区域内での戦闘の目撃。あの状況からしてそうなることは簡単に予想できた。


「…はたから見たら、ただあの日知り合っただけの人なんだ。でも俺からしたら、そうじゃない」


 ゆっくりと瞬きをする。彼女と離れるときは決まって思った。初めて会ったあの日からずっとそうだ。


「またあの子と会ってるんだろ?」
「ああ」
「…おまえのそれって責任感?それとも好意?」


 あの感慨こそ俺がまた彼女と会いたいと思った理由だ。

 黙った俺に迅は困ったように頭を掻いてから、「嵐山がよければいいんだけどさ」と切った。


「そのうちちょっと面倒なことになるよ。俺のサイドエフェクトが言ってる」


「まあ、俺もアシストするしそんな大事にはならないから心配しなくていいけどね」軽い調子でそう付け加え、迅は席を立った。時間からしてやはり防衛任務だったようだ。振り向いた態勢でお礼と激励を共に送ると、彼はひらひらと手を振ってラウンジをあとにした。ひとつ息をつく。安堵でも落胆でもなかった。