五限終わりの校舎入り口付近、偶然風間さんを見かけたので駆け寄って声をかけた。邪魔にならない壁際に寄ってからどうしたのかと問うと、彼は課題のレポートを提出しに来たのだと答えた。なるほど、水曜は風間さんは全休だと聞いていたから不思議だったのだが、それを聞けば納得だ。それにしてもほとんどの授業が試験代わりのレポートの提出期限を試験の日までと定めると思っていたのに、二週間も前に出さなくてはならない講義もあるのか。驚いていると、彼はあっけらかんと、提出期限はまだだが完成したから出すのだと答えた。


「おまえも早めに片付けておけ。間違っても太刀川のようにはなるなよ」
「はは…肝に銘じておきます」


 苦笑いで返し、提出ボックスのある二階に用がある風間さんと別れる。実はすでに太刀川さんからレポート課題のヘルプを受けているのだが、これは言わなくて正解だっただろう。
 風間さんを目で見送り、踵を返そうとする。しかし彼とすれ違うように階段を降りてきた人物に気付いた瞬間、視線は釘付けになった。自分の心臓が動くのを確かに感じ取る。学生が多く行き交うこの場所で、俺は確かに彼女をとらえたのだ。


「……


 ほんの呟くほどの音量だ。聞こえたはずもない。けれどそれに応えるように、彼女はこちらに目を向けた。間違いなく、視線が絡む。挨拶の意味を込めて右手を胸の高さまで挙げると、彼女は一度辺りを見回し、相手が自分であることを自覚すると、戸惑いがちに軽く振った。歩み寄ろうと足を前に出すと向こうも耳にはめていた白いイヤホンを取り、肩にかけていたカバンにしまいながら小走りで駆け寄ってきてくれた。身長差のある彼女を見下ろしながら、五時間ぶりだなとなんとなく思う。


「帰りか?」
「うん」


 ならば進行方向は同じだ。人の流れに沿って歩き出した俺に続きも足を動かす。食堂で別れた彼女は今日、一限から五限まで講義が詰め込まれていると言っていた。あれからぶっ続けで三コマ受けたためかさすがに疲労が見え、大きな溜め息をついていた。カバンを肩にかけ直した彼女は隣で俺を見上げながら問い返した。


「嵐山くんも帰るの?」
「いや、俺は夜に防衛任務があるんだ」
「おお」


 口を丸くする。自分の頭の中にインプットされているスケジュールによれば今日の任務は八時からだ。三十分前に基地にいればいいので今からだと一時間半ほど時間があった。そこまで計算して、足を止める。「、」振り返り、立ち止まった彼女ともう一度目を合わせる。


「よければ付き合ってくれないか」


 の表情が固まった。


◎◎◎



「……ぶはっ」
「…いや、俺が悪かった」


 居た堪れず斜め下へと目を逸らす。現在、俺たちは大学近くの喫茶店で向かい合って座っていた。
 今回は四人席をゆったりと陣取った。ソファ席をに促すとお言葉に甘えてと軽い足取りでテーブルとの間に滑り込み、ソファにカバンを置く。それからカウンターで注文してきたアイスのカフェオレとココアをそれぞれ手元に置き、落ち着いたところで、思い出したようにが吹き出したのだった。


「いや、なんか、自分で面白くなってしまった…」


 ツボに入ったらしく声を出さず肩を小刻みに震わせる。そこまで笑われるといっそ清々しいのだが、先ほど俺たちは微妙に気まずい空気が流れていたはずだ。原因は俺の言葉足らずかつ力の入った誘い方で、に誤解させてしまったらしく聞いた途端彼女は硬直したまま顔を真っ赤にしたのだ。それには俺も驚いて、え、と間抜けたリアクションをしてしまった。誤解だと先に気付いたのはの方で、「あっそういう意味か!びっくりした!あはははは!!」顔を赤くさせたまま爆笑しだした。俺もようやく合点がいき、途端に気恥ずかしくなり誤解を解くべく慌てて言い訳を述べたのだった。
 結局は喜んで了承してくれ、防衛任務までの時間を潰すのに付き合ってくれた。確かに、さっきの二人の慌てようは面白かった。第三者があの場にいたらのように爆笑していただろう。そう思うと俺も腹の底からじわじわと笑いが込み上げてきて、口を覆って口角が上がるのを隠した。
 しばらくツボから抜け出せずにいただが数分後ようやく、ココアを吸いながらはあと息をついた。大丈夫かと問うと大丈夫と肩をすくめて笑う。


「あ、そういえば嵐山くん、わたしに用…とかあったの?」
「いや?ないよ」
「あれ」


 今度はポカンとする。……ああそうか、普通こういうときは何か理由がいるのか。といって考えてみても理由になりそうな動機や口実は何も思い浮かばなかった。単純にと話したいと思ったからなのだが、言われてみれば今日知り合ったばかりの男が馴れ馴れしすぎたか。


「すまない、無理に付き合わせてしまったな」
「え?!そういう意味じゃないよ!むしろわたしなんかでいいのかって感じだし!」
「いや、それはいいんだ」


 その心配は必要ない。今日話しただけでも俺は確かにの雰囲気がとても気に入っていて、時間を共有したいと思ったのだ。だが肝心のの都合を考えていなかった。そう言うと彼女は音がしそうな勢いで首を振り、「できることならわたしも嵐山くんとしゃべりたいと思ってた」と答えた。それにはホッと胸をなでおろす。


「…はとっても話しやすいんだ。自分でも驚いてる。すごいな、おまえは」
「ええ、そんな大した人間じゃないよ。照れるな〜」


 あははと頭を掻く。それを見て自然と笑顔を作っていた。も嬉しそうににっこりと笑う。


「嵐山くんて笑顔素敵だよねー」
「そうか?」
「うん、すきだなー。…あ、ごめんそういう意味じゃなくて!人として」


 本当に笑顔が素敵な人って内面も素敵だと思うんだよと身振り手振りを付けて慌てて弁明するに思わず吹き出してしまう。


「くっ。……。なんか笑いづらくなったな」
「ふっ…!確かに、ごめん」


 それから二人で大口を開けて笑った。うまく言い表せないけれど、彼女に対して確かに思うことがある。この感覚は間違いない。
 思うと心臓が暖かくなる。目尻を拭う彼女を見て、じわりと目を細めた。


 この人いいな。


◎◎◎



 防衛任務中もふとしたときにのことを思い出していた。偶然出会った彼女だ。今日一日で色んなことを話した気がする。十九年間三門市に住んでいる彼女だが、学校は俺とは全部違った。高校はボーダー基地から一番遠いところだったんだそうだ。大学にはバス通学をしているという。佐補と同じパスケースから、俺の家族の話にもなった。携帯に入っている写真を見せようとバッグから出した際、なかなか見つからずバッグの中身を全部出して探すハプニングがあったが、無事底で見つけられたのはホッとした。
 喫茶店を出る時間になった際はバス停まで送ると言ったのだが、はここでもう少し残って勉強していくと言って断った。彼女はレポートがない代わりに試験が八つもあるんだそうだ。試験期間まであと二週間。それが終わったら大学生初めての夏休みだ。


「大阪のお土産買ってくるよ!」


 友人と旅行に行く予定らしい。俺が遠出しないことを言うとそう言ってくれた。お土産云々より、この関係が今後続くと相手も思ってくれてることが嬉しかった。


「嵐山さん」
「ああ」


 充の呼び掛けに応じる。基地南部に移動するのだ。今日の防衛任務はB級のチームと、玉狛から迅と桐絵も来ているらしい。作戦室で確認し、心強い布陣だなと思っていた。


『ゲート発生 ゲート発生 座標誘導誤差9.58』


 サイレンのあとに響くアナウンスに気を引き締め直す。綾辻にレーダー情報を表示してもらい、それを追って移動する。


「警戒区域ギリギリだな」
「そうですね」


 稀にあることだが、つい顔をしかめてしまう。到着が遅れると場合によっては近界民が警戒区域を越えてしまうおそれがあるのだ。賢の射線が通るなら狙撃手の強みが生きる場面だが、あの辺りは確か建物が残っていたはず。狙撃は難しい、急がなければ。
 レーダーには二つのトリオン反応が映っていた。戦闘型と捕獲用の近界民が一体ずつ。一番近いのは俺たちの部隊だった。近くの区域を担当していた迅と桐絵も向かってきている。


『女性の一般市民を視認しました』
『なに?!』


 民家の屋根を走る木虎が内部通話で報告する。すでに建物が崩れる音が届いていた。近界民はおそらく近くにいる市民を狙うだろう。保護が最優先だ。戦闘に巻き込まれる一般人にはおそらく記憶封印措置が適用される。本部への要請を綾辻に指示するとすぐさま了解の返事が返ってくる。
 そうこうしているうちに近界民の姿を捉えた。俺たちに背を向け何かを追っているようだ。進行方向には木虎の言う通り逃げる市民が確認できた。後ろ姿ではわからないが若い女性のようだ。南部は警戒区域を出てしばらくしたところに大学があるから学生かもしれない。機動力のある木虎がまず地上で戦闘型のトリオン兵を抑える。今のうちに市民を。

 屋根に飛び乗り木虎の頭上を越える。走り続ける後ろ姿の彼女を呼び止める。


「市民の方!もう大丈夫です!」
「?!」


 振り向いた彼女の顔が見えた。瞬間、頭が真っ白になる。


「嵐山くん?!」
…?!」


 途端に鈍る思考。立ち止まったの背後で家屋が倒壊する。もう一体の近界民が近付いてきていた。