警戒区域を最短ルート、一直線で駆け抜けていく。障害物のない屋根の上を飛び移りながら、俺はまだ見えない目的のポイントへの距離を目測する。戦闘体でもまだ相当かかるはずだ。それまでじっとしててくれ、と心の中で一心に願う。


[学生証落としてたよ!今警戒区域の手前まで来てるんだけど会えたりする?]


 出立間際、どうしても気になって確認した携帯に届いていたのはからのメッセージだった。読んだ瞬間七ヶ月前のあの日がフラッシュバックする。急いでカバンの中を探ってみたが案の定それはなく、血の気が引く感覚に襲われた。すぐさま、先に出ると言い残し単独で基地の外へ繰り出した。
 具体的にがどこで待っているかは記されていなかった。しかし俺は迷わず、あの日を見つけた場所へと向かっていた。あの付近は大学から行く場合基地に一番近いバス停がある。しかも警戒区域と市街地を隔てる境界線は有刺鉄線のみで、越えようと思えば誰でも越えてしまえる。誰に聞くこともできなかったが、あの辺りからは警戒区域に入り、基地を目指す途中で近界民と遭遇したのだと、確信していた。

 前の時間任務に当たっていた部隊との入れ替えの時間までもう間もなくだ。充たちは俺なしでも大丈夫だと言ってくれたが、隊長が不在では他隊に示しがつかない。早く合流するためにも、今はとにかくの安全を確認しなければ。
 赤い屋根から緑の屋根へと飛び移り、辺りに目を配り始める。家屋がちらほらと崩れたままになっており、交戦の跡が残っていた。前にを保護した場所もこの辺りだったと思い返しながら、しかし人影は見えないことにひとまず安堵する。ここまではまだ来ていないようだ。
逸る気持ちの裏側では、最悪のシナリオが思い浮かんでいた。が境界線を越える。近界民と遭遇する。また記憶の処理が行われる。いいや今度は無事では済まないかもしれない。もし近界民に傷つけられたり、攫われたりしたら。

 見えた住宅地の先、二重に張り巡らされた有刺鉄線。その向こうに広がった空き地に、一人の姿をこの目でとらえた。


「……」


 震える息を、丁寧に吐き出す。見失わないよう、地上に降りて歩み寄る。戦闘体は夜目にも対応できる。それなのに、あの人影が彼女であるとはっきり言い切れないのは、別に理由があった。

 しゃがみ込んで伏せた顔。シルエットは小さく、少女にも見えた。そうぼんやりと考えていた脳がハッと覚醒し、再び駆け出す。





 泣いているように見えたのだ。その可能性に気付いた瞬間、自己中心的な心が猛反発をした。傲慢で結構だった。俺は全部の君を救いたいと、思っているのだ。
 呼んだ名前は夜の空に響いた。が顔を上げる。その目は潤んでいたものの、涙はこぼれていなかった。杞憂だった、彼女は無事だった。今回は、記憶を封じられずに済んだ。そう思うと無意識に安堵の息を吐いていた。


、よかった…」
「あ、あの…」


 彼女がおそるおそる立ち上がるのと、俺が有刺鉄線を飛び越えたのはほとんど同時だった。駆け寄って気付いたが、の顔は真っ青だった。どうしたのかと、胸元の携帯電話を握り込む目の前の彼女をうかがう。


「ご、ごめん嵐山くん…!」
「何がだ?」
「よく考えたらお仕事の邪魔だったよね…!ほんとごめん!」


 どうやら真っ青な顔色の理由はそれらしい。大丈夫だ、そもそも俺が忘れ物をしたのが悪い、と答えるもは首を横にブンブンと振る。申し訳なさそうに眉尻を下げ、肩にかけたカバンから長方形の薄いカードを取り出した。それを右手で受け取る。


「…ありがとう」
「ううん…。ごめんなさい、おとなしく事務室に預けるとか、ほんとは思いついてたんだけど…」
「……」
「でも、」


 顔を上げた目と合う。目を少し見開いて、一度伏せ、もう一度俺と向き合う。肺一杯に酸素を吸う彼女の背筋が伸びるのを、俺は呼吸を止めて見ていた。


「どうしても自分で嵐山くんに返したくて、いてもたってもいられなかったよ」


 精一杯の言葉に、俺はどんな顔をしていただろう。

 俺への感情がその言葉に内包されていた。残る。彼女の言葉も心も残るのだ。それが俺にとって、どんなに意味のあることか。あの日、去って行くに漠然と感じていた絶望。それはようやく融解し、涙となって一粒、こぼれた。驚いたが「だから、つまり、その、」と慌てふためくのをぼんやり眺めながら、心臓あたりからじんわりと暖かくなっていく感覚に満たされていた。……ああ、俺は最初から、わかっていたんだ。


「わたし、嵐山くんのこと、」


 たまらず腕を引き、抱き寄せる。腰に腕を回し、片方の手は後頭部へと強く抱き締めた。


「俺からちゃんと言うから。明日まで待ってくれ」


 速い動悸が伝わってくる。それがむしろ心地よく、俺は彼女の体温を感じながらゆっくりと目を閉じた。



◎◎◎



 朝の八時を回り基地待機の任務も終了した。作戦室で解散したあと、時間もあるからと朝食を摂るためラウンジへ向かう。約束の十二時にはまだ時間があった。それまでは仮眠を取って入隊式後のオリエンテーションの流れについてまとめておくつもりだった。

 迅と会ったのは食事が済み、一人で作戦室へと戻る途中だった。本来平日の朝に基地にいる人間は最小限であるのに加え、彼の所属がここじゃないこととなぜか誰かを待っている風な様子を鑑みると、導き出せる答えは限られていた。案の定声をかけた俺に気付くなり、通路の壁から背中を離した迅は意味深な目線を俺にくれたあと、ふっと自嘲気味に笑ってみせたのだった。


「…未来の視える俺が過去の話をすることは、ネタばらしみたいに聞こえるかもな」
「そんなこと思わないさ。前に迅が言っただろう。未来は無限に広がってるって」


 対峙する彼は俺がそう返すと、目を細めてどこか嬉しそうに笑った。やはり、迅は俺に話があるらしい。そして俺も、彼にはずっと伝えたいことがあった。


「夏のあの日、おまえを見て思ったよ。サイドエフェクトを使ったんじゃない。目の前のおまえ自身を見て思ったんだ。絶望を知った少年のようだった」


 伏せられた目はあの日のことを思い出しているのだろう。迅は続ける。「あのとき死んだんだ」


「誠実で実直な、誰もが憧れる心から理想の青年。嵐山准は、死んだんだろうね」
「ああ。でもよかった」


 まっすぐ見つめ返す。迅や周囲が評価してくれていた俺は、あんなことがあったあともそれまで通りに生きてしまえている。自分のせいで一人の友人の記憶を消し、何食わぬ顔で再び関わりを持つような人間がここに生きている。罪悪感や責任感がなかったわけじゃないが、動機としてはどちらも弱かった。
 ある覚悟を決めることに、驚くほど迷いはなかった。迅が心配してくれるほど、俺はあのとき以上に心を苦しめていない。そう、だから、俺はおまえに伝えたかったんだ。口角をやんわりと上げる。迅もわかってると言うように笑っていた。


「俺はこれからも大丈夫だ。迅、ありがとう」
「ん」


「幸運を祈るよ」その言葉が、待ち伏せてまで迅の言いたかった言葉なんだとわかった。すれ違ったあとも彼のことは振り返らなかった。振り返らなくたっていつでも会えるとわかっていた。



◎◎◎



 とは大学から少し離れたバス停で待ち合わせていた。お互いもう春休みに入っていたが、前に話していた大学近くの料理店に行こうと持ちかけたのだ。早く来たつもりだったがはすでに到着していて、軽く謝るとはなんのなんのと首を振った。軽い切り返しだがその動きはぎこちない。それもそうだ、告白すると宣言した男を目の前に、普段通りでいる方が難しいだろう。
 歩き出し、大通りを逸れ脇の小道に入る。ここを数分歩いた場所にあるとネットに書いてあったのだ。学生に人気だとも書いてあったが、大学が長期休暇に入ったためか人通りはほとんどなかった。車も通らない道なので随分と静かな印象を受ける。
「…変なこと言うんだけど、」「…?」唐突に、が切り出した。うつむき気味の彼女の表情がうかがえず覗き込もうとする前に、パッと顔を上げられた。じっと見据える視線は、自分でもよくわかってないと言っていた。


「嵐山くんにはずっと前から、何か運命めいたものを感じるんだ」


 思わず足を止める。呆気にとられ返せなかった。

 のそれは記憶を処理された名残りだろう。覚えてなくとも、封印された記憶が告げているのだ。もう彼女にとっては失われたも同然だったそれが、彼女の中に確かに存在している。その上で、もあの日俺といて何かを感じてくれていたのだと思うと、この上なく嬉しかった。


「…そうか」


 覚悟ならとっくのとうにできていたのだ。一生隠し通す覚悟を。たとえ嘘をつき続け、彼女に誠実でいられなくとも。一緒にいるために、俺は驚くほど抵抗なく、決心することができた。





 向き合った彼女の口がきゅっと結ばれる。俺は最初からわかっていたんだ。あの日が俺に何をくれたのか。尊いものだ。無形の、しかしずっしりとした重さのある、そうそれは確かに、愛だった。


「すきだ。よければ付き合ってくれないか」


 みるみる赤くなっていくが頷くのをこの目に焼き付けながら、俺はこのとき間違いなく幸福感に満たされていた。記憶を封じられても彼女の根幹は揺るがなかった。俺のすきな心。長い時間をかけて、俺は彼女を慈しみ、見守っていきたいと思うのだ。