ボーダー基地の最上階に位置する会議室は外から見るとその場所がよくわかる。基地の形状は四角錐台を上からくり抜いた形になっており、前に綾辻が「四角いバームクーヘン」と形容していたのを思い出す。その上部の一辺に張り出す形で設置されている施設の一部が会議室だ。大窓が張り巡らされたそこから日光が入り込み明るい空間が作られている。まだ昼過ぎだ、当然だろう。
 明るい時間にここに足を踏み入れたのが久しぶりだったのもあって夜とのギャップに辺りをうかがってしまう。もちろんきょろきょろするほど落ち着きのない人間ではないので、目線だけを動かしていた。この場にいるのは俺以外に、正面に座る城戸指令、左手に鬼怒田さんと根付さんがいた。上層部として少なくともあと忍田本部長と唐沢さんがいると思っていたが、二人は別用で不在らしかった。


「……とのことです、が…間違いないんだね?」根付さんからの報告を最後まで聞き終えた俺は、太ももの上の拳を握り直した。「はい」ここに呼ばれたときから予感していた。前に迅が言っていたことはこれだと。


 そもそも、こういう形で呼び出されたのはこれが初めてだな。


「何を考えているんだ!!万が一思い出して記憶封印措置のことが市民に広まったら大変なことになるんだぞ!」


 鬼怒田さんが怒りに任せ拳でテーブルを叩く。根付さんも俺が入室したときから困り顔のままだ。城戸指令だけは、いつものように感情を伏せた表情をしていた。かくいう俺も、今自分の顔に表情がないことを自覚していた。
 と接触していることが上層部の耳に入った。こないだの休日に駅をぶらついたときだろうか。俺が一人の女の人と歩いているというのが市民の間で広まり、噂を耳にした根付さんに今回の件が伝わったらしかった。俺が、ボーダーの手によって記憶を処理された人物と会っていた。それなりに親しいことも調査済みだという。詳しくは知らないが、市民向けの対応をしている根付さんは記憶処理された市民の情報を持っているのかもしれない。
 鬼怒田さんからの追及に目を伏せる。「顔」になると周囲の目が多くなるのは承知していた。よほど無関心でない限りいつかは上層部に伝わるだろうことも覚悟していた。そう、だから驚きはしなかった。頭ごなしに叱られることもわかっていた。そもそも隠し通せると思っていなかったし、別段隠そうともしていなかった。


「…簡単に思い出せてしまうものなんですか」
「…?!」


 鬼怒田さんたちが驚いたように表情を変える。我ながら子供のような反発だ。大学生にもなってすることじゃない。バツが悪く苦虫を噛み潰したような顔をしてしまう。
 事実、咎められる理由はあるのだ。俺がしていることは、わざわざ会議室に呼び出さなければならないほど目に余ることだった。記憶処理された人間とボーダー隊員は関わってはならないという規則はない。しかしそうでなくとも、普通に考えたら関わるのと関わらないのではどちらが善いかなんてすぐ判断できる。

 判断は容易くできる。けれど、それに従った行動は、どうしてもできなかった。あれっきりにできなかった。口をぎゅっと閉じ、頭を下げる。


「…出過ぎたことを言いました。すみません。でも俺は…」


 呼び出されて事実確認だけで済む話ではない。言外に、この先関わるなと言われているのだ。そこまでわかっていて、なお、受け入れがたい指示だった。

 …、俺はおまえを傷付けるかもしれないとわかっていながら、もう一度やり直したかったんだ。ここに呼び出されお咎めを受けることを予測しながらも、おまえとの繋がりを作りたかった。その欲求を満たした今、後悔は一つもしていない。そしてこの先、誰に言われたとして、関係を断ち切ることはしたくなかった。


「まーまー、ボーダーの顔をいじめるのはそこら辺にしましょうよ」


 ハッと顔を上げる。背後にあるシャッター式の扉が開いたと思ったら、現れたのは迅だった。やはり予知していたのだ。…情けない。彼の姿を捉えた瞬間、柄にもなくホッとした自分がいた。


「迅…」
「嵐山はそういうリスクを重々承知で彼女と会ってるんですよ」


 迷いなく足を進め俺の隣で立ち止まる。見上げた俺には目を向けず、迅は正面の城戸指令と対峙していた。


「何か視えているのか」
「ええ。…いや、この場合見えてないって言った方が正しいのか」


 逡巡してみせた迅は依然堂々とした態度で、大げさに肩をすくめながら両の手のひらを天井に向けた。そんな彼から、俺は無意識に目を逸らしていた。


「残念ながら、あの子があの日のことを思い出すことは、どうにもないようですよ」


 無機質なテーブルを視界に映し、耳はその言葉を脳へ伝える。彼によって告げられた未来という名の事実。落胆も失望もない。むしろ安堵に近いだろう。ただ、心臓の膿んだような痛みだけが残った。


◎◎◎


 迅と並んで基地内を歩く。手持ち無沙汰なのか両手をズボンのポケットに入れる迅は何となしに、「忍田さんからはお咎めなしだよ。嵐山のすきにしたらいいって言ってる」と伝えてくれた。予知かと問えば、小さく笑みを浮かべてもちろんと肯定した。そもそもまだ忍田本部長の耳は届いてないのだそうだ。そうか、と呟くように返事をし、進行方向の床に目を落とす。結果的にまた迅のサイドエフェクトに頼ってしまった。彼がいなければあの場で自分はどう対応していたのか想像がつかなかった。まったく、プライベートのことまで、迅には負担をかけすぎてるな。申し訳なさに苦笑いを浮かべる。


「ありがとう、迅」
「いや、それより、」
「…迅は大変だな。未来が視えるって、いいことばかりじゃないだろう」
「俺の心配かよ」


 迅から気の抜けた笑いが漏れる。考えるたび果てしない。彼のサイドエフェクトが及ぼす彼自身への影響はどれほどのものなのか。周囲へのそれだけで相当なのだ。持ち主の彼には世界がどう見えてしまうのだろう。俺はこんな、ほんの一部の未来を聞かされただけで深く心臓を揺さぶられているのだ。迅はこの何倍の痛みを味わうつもりだ。計り知れない。迅の横顔は神妙そうに唸ったと思ったら、自嘲気味に笑みを浮かべた。


「嵐山の言う通り、だけど…でも悪いことばっかでもないよ。それに未来は、無限に広がっているからな」


 そう言った迅は基地の出入り口付近まで来ると、じゃ、と敬礼のポーズをして足早に去っていった。ああ、と短く返し見送る。その後ろ姿にふと思い出したのは、先日、去り際の彼に言われた言葉だった。


「おまえのそれって責任感?それとも好意?」俺のせいで不幸な彼女。永遠に干渉されるはずのなかった彼女の記憶を踏みにじったのはまぎれもなく俺だった。これは俺の罪だ。もう二度と危険な目に遭わせまいとする気持ちは確かに強くあった。


 迅は俺に謝ろうとしたのだろうか。があの日のことを思い出すことは万に一つないと断言したことを、それによって俺の余地がなくなることを悪いと思ったのか。だとしたらそれは、お門違いだ。俺は上層部の彼らと同じことを考えている。
 迅の未来予知に誰より安堵したのは俺だろう。記憶を消されたという事実にが傷つくことはない。……ああ違う、正直に言おう。それに加担している罪深い自分を知られずに済んで、心底ホッとしているのだ。






 迅の言う通り俺はリスクを背負ってでもと会っていたかった。ただそばにいて彼女の空気に触れていたかった。初めて会ったあの日から、もう一度関係を築こうと決めたときも、今も、変わっていない。これが一番強い理由だった。


(いっそ罪悪感や責任感だったらよかったんだけどな)


 人知れず自嘲気味に笑ってしまう。彼女への思いの中心部分は単なる、重篤で、強欲な、自分本意の好意でしかなかった。