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不運はどちらだったろう。


微かな物音を耳にしたのは背後の気配を感じ取った直後だった。反射的に振り返ると、道路脇に落ちている何かが目に入った。外の暗さに発光した画面はよく目立ち、それが携帯だろうことは容易に予想がつく。十中八九、物音の正体はあれだろう。周囲に人の姿はない。先ほどまでいた彼らは全員すでに去ったあとだった。
右耳に当てた携帯からは未だ途切れないコール音が鳴り続けている。一旦離し、踵を返して元来た道を歩いていく。工藤邸を通り過ぎ、阿笠邸の前で立ち止まる。携帯は一定の間隔で振動していた。

それが着信を知らせており、発信者の名前を目にしたときにはもう、存在に気が付いていた。ゆっくりと携帯から顔を上げ、塀の陰に隠れる彼女を見遣る。





おそるおそるといったように僕を見上げる。明らかに動揺した目。暗がりでわかりにくいが顔色も悪そうだ。言葉が出ないのか、口は小さく動いているが声になっていなかった。そんな彼女を見下ろす僕も大概、動揺していたが。
なんでここにいるんだ。真っ先に思い浮かんだのは八つ当たりのような台詞だった。次に襲ったのは漠然とした焦りだ。に公安として動く姿を見られた。避けたかった現実に身体はかなしばりのように動かない。澁谷夏子が被害にあったことを知ったのか。だから詳しく聞こうと僕を探していた?だとしても僕がここにいることを知る手段がないはずだ。まさか発信器を仕込まれたわけがない。
そこでようやく思い出したように携帯の発信を切った。同時に足元の携帯もバイブレーションをやめ静かになる。に明日のシフトは代わってもらわなくて大丈夫だと伝えるはずが、まさかこんなことになるとは。この場をどう切り抜けるべきか、考えあぐね答えの出ないまま、地面の携帯を拾い上げた。そのままに差し出す。


「…はい」
「あ、ありがとうござい…ます…」


うつむき携帯を握りこむ。ここにがいる理由はわからない。だが、紛れもない事実だ。あとはどこまで知ったか確認しなければ。誤魔化すか、場合によっては口止めしなければならない。口止めしたあとはどうする。そもそもこれを知られた時点で、との関係を続けることは危険でしかない。

目の前で閉じられた未来。自分の温さに愕然とする。こんな唐突に終わりが来るなんて思ってもいなかったのだ。


「安室さん…」


気付くとが僕を見上げていた。その表情がみるみると変化する。良い方にではない。悲しそうに眉を下げ、歪んだのだ。


「なんでそんな顔……ほんとにわたしに内緒で依頼受けたんですか…」
「……え?」
「しかも、あの男の人たち…別の人たちと調査するんですか…」


声は震えていた。思わず彼女を凝視するも、に取り繕ったような違和感はない。本気で言っている。本気でそんな、的外れなことを。慎重に息を吸う。の顔色は悪いままだ。苦しめているのは紛れもない自分だという自覚は嫌というほどあったけれど。


「黙っていてすまない」


それはまさしく光明だった。口にした謝罪はの見解を肯定するものだった。罪悪感はもちろんある。だが僕は、彼女の勘違いを利用しまんまと誤魔化す算段をつけたのだ。は以前から僕が隠れて依頼を受けることを危惧していた。今回がまさにそれだと思ったのだろう。だとしたら先ほど部下とした会話もロクに聞かれていなかったと考えられる。探偵としての仕事だと思わせることは容易いかもしれない。現にはこれに対しさらに非難の色を強めた。


「ひどいです!わたし助手ですよ?!」
「ごめん。どうしても君を関わらせたくなかったから秘密にしていたんだ」
「な、なんでですか…?」
「…言えない。すぐに片付けるから、君は絶対に手出ししないでくれ」
「そんな…」


がひどく困惑しているのがわかったが、このまま押し切る他ないだろう。嘘をつくくらい、本当のことがバレるより何倍もマシだった。
本来ならに何も気取られることなく明日を迎え、澁谷夏子の依頼の顛末だけを話してこの件は終わるはずだった。そのための偽装を施したつもりだったが、はどこかで不審に思ったのだろう。そのくせここに来て詰めが甘いから、僕の嘘を見抜くことができない。見抜いた先に安室透がいないと知ることはできない。

とはいえ、期待を裏切ったことには変わりないか。それもかなり堪えるやり方になってしまった。こんな僕に、さすがのも嫌気が差しただろう。思わず、は、と小さく自嘲が漏れた。
僕は、にも許せないことがあると知っている。もしかしたらこれで見限られるかもしれない。受け入れる心構えはしていたつもりだったが、いざ直面すると適切な言葉が何一つ浮かばなかった。


「あ、安室さん」
「……ん?」
「わたし、助手ですよね?」


考えるより先に答えていた。


「ああ」


僕の肯定に、はもどかしそうに口を噤んだ。彼女がどう受け取ったかはわからない。少なくとも僕は即答した自分に驚いていた。まるで肯定以上の本音を露わにしたようだった。内心焦りながら彼女から目を逸らす。視界の隅で、は視線を落とし逡巡したと思ったら、突然強く目を瞑った。


「目を瞑ります!」
「…え?」
「どうしても関わらせたくない依頼だったんですよね、わかりました!正直すごく気になりますけど、大丈夫です…!でも隠されると傷つくので、ちゃんと言ってください!言ってもらえばおとなしくしてるので!」


呆気に取られる。表に出さないよう堪えるのがやっとだった。「ああ、わかったよ。ごめん」口先だけでそう言うと、目を開いたは不安げに僕を見上げ、それから再び伏せた。……隠されたことに納得はしてないが、今日のところは見逃してくれるのか。聞き分けがいいのか悪いのか微妙なところだが、自分の罪がすんなり許されなかったことには安堵していた。僕への期待や関心が死んでいないということだ。僕が即答してしまったことについても、肯定以上の何かは感じ取っていないようだった。よかった。先程から逸っていた心臓は、ようやく落ち着きを取り戻していた。


「…じゃあ、わたし帰ります。安室さんは、その……」
「ああ、もう少しやることがあるから。でも通り道だから家まで送るよ」
「い、いいんですか?ありがとうございます」


改めて車へ踵を返す。「依頼のことは話せないけどね」念のため釘を刺すとは肩をすくめて苦笑いをした。…やっぱり聞き分けはいいのかもしれない。ときどき常識はずれでも、基本的にいい子であることはこれまでの付き合いでわかっていた。

だからこそ君が哀れで仕方なかった。悲しませ、空元気で気を遣わせているとわかっていながら、僕が優先するのはいつだって自分の使命だった。





警視庁で今回の報告と今後の指示を済ませ、帰宅する頃には日付はとっくに変わっていた。 赤井の居場所を突き止めたもののFBIの同僚という人質の確保に失敗したうえ、僕の所属も知られていたことから計画は頓挫した。奴を吊し上げることはおろか、下手に組織にリークをしたら僕がスパイであることが露見する危険性まで出てきた。ベルモットには勘違いだったと説明するしかない。
今回の収穫である楠田陸道の拳銃については、入手ルートを調べるよう部下に指示をした。これで組織に繋がる何かが出ればいいが。徒労に終わったとまでは思っていないが、想定していた結果を出せず達成感はなかった。ことごとく先を読まれていた。そして僕が甘くみていたのだろう。一人の少年を思い出し、深く息をつく。

とにかく、明日からもやることは山積みだ。ふう、と再度息を吐き、エレベーターから降りる。マンションの外廊下を歩いていくと、ある物が目に入った。
僕の部屋のドアノブに白い袋が掛かっていた。…なんだ?眉をひそめながら近づき、ドラッグストアのロゴが入ったビニール袋を覗き込む。スポーツドリンク、ゼリー飲料、インスタント粥がいくつか入っているようだ。首を傾げそうになったところで、ようやく気が付いた。


「そんなこと書いてあったな」


昼頃のからのメッセージを思い出す。体調不良という情報をおそらくポアロから得たのだろう、無人のこの部屋を訪ねたが、起きたら外を確認するよう言っていた。何のことかと思ったがどのみち家に帰る時間はなかったため後回しにしていた。なるほど、見舞いの差し入れを持ってきていたのか。

無意識に口元が綻んだ。それからすぐに力が抜け無表情になる。ビニール袋をドアノブから外し、鍵を開けて部屋に入る。電気を点けリビングまで行き、荷物と一緒にそれをテーブルに置いてから脱力したようにソファに座り込んだ。背もたれに寄りかかり、大きく息を吐くと身体が沈んでいくようだった。別れ際、笑ったの顔が脳裏に浮かぶ。

自宅へ送る車内で彼女は努めていつも通りに振舞っていたと思う。「に内緒で受けた依頼」には一切触れず、澁谷夏子の件について話す僕に相槌を打っていた。僕たちの依頼主が関わった事件についてはやはりすでに知っていたらしく、経緯については彼女からの説明で明らかになった。阿笠博士の家で江戸川コナンに会えなかったところまでを話したは、それから言葉を濁して黙った。その先は僕も知ったところだろう。だから僕も、気まずそうに苦笑いする横顔を見遣るだけで深く掘り下げることはしなかった。

は空気の読める子だ。僕が助かることを平気でやってくれる。自分の行いを省みると、彼女がどんどんいい子に思えてくる。果たして君がそこまで褒められた人間なのか、もはや僕にはわからない。確かなのは、彼女の心が、他でもない僕自身によって傷つけられたということだった。

わかっている。は日頃から僕の助手であることにこだわっていた。僕に好意があることも承知している。その上で君を無下にするのだ。君の考えていることを手玉にとって利用する。任務のためなら躊躇はしない。たとえ僕を案じて買ってきた見舞いの品に、どうしようもない罪悪感を覚えたとしても。


「……、」


胸に支えた何かを吐き出すように息をつく。じわりと痛みが広がった。こんな感情は捨ててしまえたら楽になるんだろう。照明の灯りを遮るよう、まぶたの上に手の甲を乗せる。

罪の意識は次第に、諦めの境地に達していた。こんな近くにいて隠し通そうなんて、最初から無理な話だったんだ。元から知りたがりのと秘密主義の自分の相性は最悪だった。僕は決してこの口を割れず、の詮索を逃れるべく手を尽くさなければならない。彼女は信用に値するが、信用は秘密をさらせる理由にならないからだ。
すでには僕が毛利探偵の弟子を続けていることを不審がっていた。このまま一緒にいたら、他にも疑念が出てくるのだろう。僕がの考えていることがわかるように、も僕の感情を読み取ってしまうかもしれない。それは僕にとって不都合でしかない。何も知らないでほしい。知られたら最後、君をそばに置いておけない。

何も気付かないでほしい。絶対に首を突っ込まないでほしい。いつも笑っていてほしい。こんな頼みごとを受け入れてくれたらどんなに楽か。

でも君は懸命に生きてるから、きっと泣かせてしまうんだろうな。


「……」


目を閉じ、深く息を吐く。今日は泣かれなかった。誤魔化せたおかげで、彼女の期待を裏切りこそすれ、関係が破滅するような致命的な傷にはならなかった。本当によかったと思う。


「……弱いなあ…」


自嘲気味に零す。つくづく情けなくて仕方なかった。

、僕は君を守るための労力を惜しまないつもりだ。離れ難いから囲い込む。その覚悟だってとっくのとうにできている。でも、だからこそ、君にはこれ以上僕の弱点になってほしくないんだ。

そのためにも僕は隠し続ける。君に一切の事情を明かさず、真実から遠ざけ、都合のいい言葉を吐く。君との別れが最悪な形にならないよう、ずっと君が綺麗なままであるように、誠心誠意嘘をつき続ける。これが僕の守り方だった。


そうすることで君が、僕から離れたくないと思うのなら上等だろう。


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