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玄関口の阿笠博士にコナンくんは今出られないと言われたときは膝から崩れ落ちそうだった。内心頭を抱えつつ、そうなんですか、わかりましたと大人ぶって引き下がったものの、博士がドアを閉めた途端大きな溜め息が出てしまった。

なんでもコナンくんは博士が開発したゲームに熱中しており、トイレ以外じゃ何も手を離そうとしないんだとか。お泊まりの理由もそれらしく、なんとも子供らしい理由に得心した。天才少年でもまだ小学生だもの、かわいいなあ。それに比べて子どもの楽しみの時間を邪魔しようとしたわたしの大人げなさよ。突撃までしておいて今さら申し訳なくなる。今度コナンくんに会ったら謝ろう…。

玄関ドアから離れ、とぼとぼ歩く。安室さん、澁谷先生、コナンくんと、今日は会いたい人にとことん会えない日らしい。そういえば安室さん、今頃どうしてるだろう。もう具合よくなったかな。明日はオープンからシフト入ってるから、もし代わるなら今日中に連絡が来るはずだ。
代わるとしたら、事件のことを聞くのはいつになるだろう。まだほとんど知れてない。これでもし真相が、三日前のあの夜をきっかけにしてたとかだったらどうしよう。安室さんが罪悪感に苛まれてたらどうしよう。
家の敷地を出る手前でカバンから携帯を取り出し、ぎゅうと両手で握り込む。新着は何もない。

ふと、目の前を一台の車が通り過ぎた。

速度を落とした黒い乗用車は右隣の家の前で停車した。実は博士の家を訪ねる前から気になっていたのだけれど、お隣の家の前には黒いワゴン車が一台、こちらに顔を向けて駐車されており、その周りでスーツを着た男の人たちが何人も集まっていたのだ。辺り一帯の空気はピリッと張り詰め、明らかにお隣で何かあった様子の雰囲気に、わたしはビビってそそくさと博士の家の敷地へ逃げ込んだのだった。
今も状況は変わってないようで、黒い車から降りた男の人も険しそうな顔で「状況は?」と問うていた。家の塀の陰に隠れてうかがうわたしからは、すぐワゴン車に隠れて見えなくなってしまったけれど。

今日やりたかったことが手詰まりになってしまったわたしは半ば自暴自棄な気分でこの場に留まっていた。なんか、事件かな。第一にそう考えるのは探偵の助手が染み付いてきた証拠だろうか。少なくとも楽しい集会には見えない彼らの姿を想像しながら、時折聞こえる話し声に耳をそばだてていた。とはいっても、車と塀という遮蔽物があって言葉としてはまるで聞き取れない。
隣の家には沖矢さんという男の人が住んでると聞いたことがある。機転の利く人だと安室さんとも話した。助けようとしてもらった恩もあって悪いイメージがないので、彼の家の前にたむろする男の人たちがどうしても良からぬ集団に見えてしまう。もしかしたら犯罪グループかも。沖矢さんに悪いことをしようとしてるんじゃないか。だとしたら助けないと。……どうやって?
とにかく気付かれないよう息を潜める。そっと道路を覗くも、ワゴンが邪魔で誰一人として見えなかった。せめて車の陰から覗けば顔が見えるかも。思い、意を決して道路に足を踏み出す。


「降谷さん」


咄嗟に塀の内側へ引き返す。彼らの気配が一斉に動き出したのだ。聞き取れなかったけど、誰かの名前が呼ばれた。微かにドアの閉じる音が聞こえた気がする。もしかして沖矢さんが出てきたのかも。状況を知りたくて、再度道路へ足を踏み出した。塀伝いに移動しワゴン車のヘッドライトの真正面にしゃがむ。当初予定していたワゴン車の陰から覗こうとしたものの、思いの外距離が近くなる気がしたので怖くて即座に諦めた。このビビりめ、と悪態をつきながら地面に手をつき車体の下から覗き込むと、何人もの男の人の足が見えた。一箇所に集まっているようで今は動きがない。
地面についた手が震えてることには気付いていた。この人たちは犯罪者かもしれない。思うと怖くて堪らない。でも見て見ぬ振りをして、あとで何かあったと知る方が怖い。板挟みみたいな状況だから、わたしはせき立てられるように探れているのだ。こういう、度胸っていつになったらつくんだろう。きっと安室さんなら逃げ腰になんてならずに行動できるんだろうなあ…。


「撤収してください。上への説明は僕がしておきます」


あれ、今安室さんに似た声が?
こんなところで聞くとは思ってなかった。もちろん他人の空似だけど、あまりに似てるものだから見知らぬ男の人たちの声より幾分か聞き取りやすかった。


「赤井は…」
「向こうに現れたと報告がありました。奴から証拠品の拳銃を受け取ったとも。僕は一度戻ります」
「わかりました」
「それから、追う最中車を何台か壊されたそうなので、後処理をお願いします」
「了解」
「この家の監視はどうしますか?」
「…今日のところは不要です。引き上げてください」


足音が聞こえ出した瞬間、わたしは素早く移動して元の塀の内側へ戻った。程なくしてワゴンのヘッドライトがつき、博士の家の前を通り過ぎていった。危ない、見つかるところだった。間一髪で逃れたことにホッと胸をなでおろす。なんとなくお開きの雰囲気だ。会話はほとんど聞き取れなかったし人相も一人もわからずじまいだったけれど、沖矢さんは無事なんだろうか。彼らが全員いなくなったら沖矢さんの家を訪ねてみようか。
なんとなく、安室さんの声に似た人が沖矢さんの家から出てきた感じがした。拳銃、車、処理。単語から推測される話の内容は、意味不明だったけれど。とにかく多分、他の人たちはその人の指示を仰いだようだった。名前を呼ばれたのは最初の一度きりだったのか、はっきりとはわからない。どんな感じだったっけ…イントネーションは「おきやさん」っぽかった気がする。あれ、もしかして安室さんの声に似た人が沖矢さん…?
どこかに停められていたのか、車が何台か発車し終えると人の気配はなくなっていた。もう大丈夫かな。沖矢さんの家に行ってみよう。いやでも本当にさっきのが沖矢さんだとしたら、一体何が何だか…。おそるおそる道路を覗き込む。

隣の家の前に人影が一つあった。まだ人が残ってたことに背筋が凍ったと同時に、その人物が誰なのか認識する。瞬間、頭が真っ白になった。


……安室さん。


ドッと心臓が大きく鼓動する。すぐさま塀の陰に隠れる。寄りかかりながら、さっきの比じゃないほどの心臓の音を全身で感じていた。見間違いじゃない、安室さんだ、安室さんがいた。なんで?体調不良で寝込んでるはずじゃあ。震える手でずっと握っていた携帯の画面を点ける。新着はやっぱり何もない。…あれ、まって、てことは……

さっき男の人たちに指示してたのって安室さん?

身体の震えが止まらない。全然寒くないのに、まるで何かよくないものを見てしまった気分になり歯がカチカチと鳴ってしまいそうだった。末恐ろしさすら覚える。それでも頭は考えることをやめず、見聞きした情報から答えを弾き出す作業を進めていく。
体調不良のはずの安室さんが沖矢さんの家から出てきた。知らない男の人たちに指示を出していた。拳銃なんて物騒な話をしていた。明らかにプライベートじゃない。安室さんがそんなことをしていたということはつまり、

わたしに内緒で、探偵の依頼を受けていた、ということだ。

その結論はダメージが大きかった。安室さんがそんな不実なことするなんて信じたくなかった。よく危惧していたことではあったけれど、いざ現実になるとイメージトレーニングなんて意味はなく、ただただ、悲しい気持ちになるばかりだった。裏切られたとすら、思ってしまう。安室さんはわたしが助手になってからも女だからとか一人で十分だからとか理由をつけてほっぽることはあったけれど、なんだかんだ最終的には事情を話してくれたり、調査に参加させてくれた。なのにこれは、全然違った。体調不良だってもしかしたら仮病かもしれない。本気でわたしに隠して探偵の仕事をしてる。安室さんが何の件で動いているのか、わたしにはちっとも見当がつかないのだ。

安室さんのことだ、何か理由があるに違いない。そう思わないとこんなの受け入れられない。例えば女のわたしは関わらない方がいい依頼なのかもしれない。今まで安室さんが、わたしを調査から外そうとしたときの理由を思い出す。ストーカー被害は、被害者が女の人だったから、気を遣おうとした。でも直近の澁谷先生の件は当然のように一緒に調査できてた。じゃあ、加門初音さんのときみたいに人手は一人で大丈夫なのかも。いや、そんなわけない。少なくとも人手が足りないから知らない男の人たちに協力を仰いだんだろう。じゃあ他にどんな理由があるんだろう…。
それに、沖矢さんは依頼人なんだろうか。それとも悪い人?安室さんがいたとなると、沖矢さんを案じる気持ちは消え去ってしまう。わたしこれからどうしよう。ここから出て行って、安室さん何してるんですかって聞いていいのだろうか。だってこんな、完璧に隠されたことを、気軽につついていいとは思えない。


(……あ、明日、聞こうかな…)


もはや逃げ腰だ。なんとなく今日は話しかけたくない。体調不良が嘘なら明日のバイトは入れるはず。あ、でも今日もズル休みなら明日も休むかも。代わってくれって頼まれたらどうしよう。
……嫌だ、な。握ったままだった携帯を見下ろし、途方に暮れてしまう。

とにかく、今は安室さんに何を言うべきかわからないので、このまま隠れてやり過ごそう。そう決めた矢先、足音が聞こえた。こっちに来てると思い背筋が凍ったけれど、よく聞くと反対方向へ遠ざかっているようだ。ホッと胸をなでおろし、どこに行くんだろうと塀から彼を盗み見た。

思った通り安室さんはわたしに背中を向けて歩いていた。進行方向に安室さんの白い車が駐まっている。本当に安室さん、何してたんだろう…。

歩いて行く安室さんが腕時計を確認したと思ったら、おもむろにポケットから携帯を取り出した。何度か操作したあと、それを耳に当てる。

途端、ブブブッと手の中の携帯が振動した。


「っ!!」


突然のことに大きく反応してしまう。着信。わかっても咄嗟に慌ててしまい手が滑った。手を離れた携帯が、重力に従いコンクリートの地面にカンッと音を立て落ちた。ひゅっと息をのむ。最悪なことに、跳ね返ったそれは完全に道路へと出てしまっていた。いよいよ全身が凍りつく。

携帯は何食わぬ顔で振動している。
表を向けた着信画面には、安室透と、表示されていた。


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