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安室さんからの返信で、身体が重くてさっきまで寝ていたこと、明日は大丈夫だと思うけど無理そうだったら今日中に連絡する旨を受け取った。
その頃には杯戸小学校に着いていて、了解です、お大事にしてくださいと簡潔に返信して携帯をしまった。安室さんがこんなに弱ってるの見たの初めてだなあ。いや、見てはないのだけど。夏休み前の試験期間にも風邪を引いてたって聞いたけど、あれは事後報告だったから訪ねたときには全快していたのだ。それ以外でもときたま体調不良を訴えることがあるから、安室さんってあんまり身体が丈夫じゃないのかもしれない。わたしにできることならお見舞いでも看病でも何でもしたいと思ってるのだけど、残念ながら未だに叶っていなかった。
昇降口の脇にある事務室で受付を済ませ、来客用のスリッパに履き替えて廊下を歩く。ここに踏み入れるのはストーカー犯が校門から出てきたのを見つけた翌日以来だ。真っ先に菅本先生を探し、あの後ろ姿はやっぱりこの人だったと確信した。
そういえば毛利さんの奥さん、無事退院できたらしい。本当によかったよ。あれから数日後に澁谷先生の依頼が入ったので、結局一度もお見舞いに行けなかったのだ。いつかあいさつできたらいいなあ。関係としては旦那さんの弟子の助手ってところか。……改めて考えるとほとんど他人だ。お見舞い行かなくてよかったかも。いやでも、安室さんがいるなら捜査に立ち会いたかったし…。

複雑な心境を抱えながら歩き進め、問題なく職員室に辿り着いた。授業中だろうか、覗き込むも先生自体少なく、目的の人物が不在であることはすぐにわかった。わたしに気付いた知らない女性の先生が歩み寄り、「こんにちは、どうかされましたか?」と声をかけてくれる。わたしの胸元には来客用のバッジがついているので怪しまれることはない。


「こんにちは、と申します。あの、澁谷先生に用があったのですが、授業中でしょうか?」
「澁谷先生ですか?」


先生はたちまち表情を曇らせた。あれ、やばい、なんかまずかったか…?!不審者に思われたかもと内心肝を冷やす。けれど先生の表情が、わたしの言動を訝ってるのではなく、どちらかというと気の毒そうにしているのに気付いて不思議に思った。


「すみません、澁谷先生は今日お休みなんです」
「えっ、あ、そうなんですか…」


内心首を傾げる。お休み?もしかして澁谷先生も体調不良なのか。昨日安室さん、依頼解決したって言ってたからどっちかの風邪がうつっちゃったとか?あ、でもよく考えたら澁谷先生に昨日会ったとは言ってなかったかも。ちょっと考えたいな。「わかりました。大丈夫です」思考を一旦切り上げ、女性の先生にお礼を言って職員室をあとにした。

廊下を歩きながら、わたしは若干の虚しさに襲われていた。澁谷先生が体調不良であれなんであれ、あいさつするつもりができなくなってしまったのは変わらない。連絡先の交換は安室さんとしかしてないので電話もできない。安室さんのお見舞いもできなかったし、今日何もしてないのと変わらないな…?
ここまで来て手ぶらで帰るのも嫌なので、わたしは苦肉の策として菅本先生を探すことにした。菅本先生なら澁谷先生のお休みの理由を知ってるかもしれない。あわよくば連絡先教えてくれないかな。コンタクトを取ったことはないので一応初対面設定だ。変なこと言わないようにしないと…と気を引き締めながら校内を歩き回る。
すぐに体育主任という情報を思い出し校庭に向かうと、ちょうどチャイムが鳴り、辺りから子どもの声が聞こえ始めた。授業が終わったのだ。昇降口にも次第に外から戻ってくる児童の姿が見え始め、これはやばいと急いで校庭へ駆け出したのだった。


「菅本先生!」


上下ジャージ姿のその人を捉えるなり呼び止める。やっぱり体育の授業中だった。どこかへ歩いていこうとする彼は驚いたように振り返りわたしを見た。初対面、初対面…!心の中では何度も繰り返すけれど、緊張がほぐれることはなかった。むしろ児童も他の先生の目もないここは聞きたいことを聞き出す絶好のシチュエーションではないか。今しかないと言わんばかりの剣幕で駆け寄ると、菅本先生は困惑したように眉をハの字に下げていた。


「な、何でしょう…というかどちら様ですか…?」
「あの、わたし澁谷先生の知り合いの者なんですけども!」


わかりやすく固まった菅本先生に、やっぱりストーカーの件は解決したんだと悟る。じゃなかったら名前を出しただけでこんなに動揺しないはずだ。


「今日、澁谷先生来てないみたいなんですけど」
「え、はい、そうですよ」
「何か知ってますか?なぜか連絡もつかなくて心配で…」


指を胸の前で組む。ポーズも相まって、騙されてくれ…!と祈る。ラッキーなことに今の菅本先生に「澁谷先生」はタブーらしく、明らかに取り乱したように慌てて手を振った。


「じ、自分は違いますから…!」
「え?何がですか?」
「澁谷先生を殴ったの、自分じゃないですからね!」


「へ?」思いもかけない物騒なワードに一瞬思考が停止する。な、殴った?何の話?菅本先生も動揺したままだ。えっと……もしかして澁谷先生、体調不良じゃないのか…?


「澁谷先生、具合が悪いとかじゃないんですか…?」
「え…?はい、入院中ですよ…頭に怪我を負って…」
「……」


頭を殴られて入院中。想像を絶する事態に頭がうまく働かない。し、傷害事件じゃないか…?!いつの間にそんなことがあったの?!


「誰に殴られたんですか?!まさか菅本先生が…」
「だから自分じゃないですって!ほごし…あっ、いや、自分の口からは言えません!」


ほごしゃ。確かに言いかけたその単語に、三日前の出来事がフラッシュバックした。安室さんに怒っていたサラリーマン。澁谷先生のクラスの保護者だって言ってた。まさか、あの人が?


「だいたい、もし自分だったら今日ここにいるわけないじゃないですか!もう犯人は捕まったんですから…昨日警察や、澁谷先生が雇ってたらしい男の探偵も来て捜査してたんですよ!」


安室さん。思わず息が止まる。


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