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車の中から食い入るようにその光景を見つめる。十メートルほど離れた場所で、男の人二人が口論をしていた。そっとサイドガラスを開け耳をそばだてると、はっきりとは聞き取れないながらも、彼は相手方の強い語気に気圧されることなく余裕げな態度のまま言いくるめているようだった。これで諦めてくれればいいけど…。身体を縮こませながらわたしは一人、依頼人の顔を思い出していた。

杯戸小学校の教師である澁谷夏子さんが身辺警護とストーカー調査の依頼を持ちかけたのはつい一週間前のことだった。ここ最近帰り道を誰かにつけられている気がするとのことで、早速翌日から彼女の帰宅に合わせて帰り道の護衛を始めた。割とすぐに容疑者らしき大柄の男性が現れ、身元を特定したところ同じ杯戸小の教師で体育主任の菅本先生だろうことが判明した。彼は連日澁谷先生の帰りに合わせて職場を出、ストーカー行為を働いていたのだ。校門から菅本先生がコソコソと出てくるのを初めて目撃したときは思わず声をあげてしまった。先生だよ、先生。信じられない。とか言って、ちょっと予想はしてたし前科持ちの自分が言えることではないのだけど。

なんでも菅本先生、澁谷先生に告白してフられた過去があるんだとか。安室さんが依頼を受けた初日、他の先生に探りを入れたところいろんな人から菅本先生の名前が挙がったらしいので信憑性は高い。ストーカーの姿を確認してから数日で身元が割れたのも当てがあったからだった。

とにかく、おそらく澁谷さんが恐怖を感じているストーカーの正体は菅本先生で間違いないだろう。帰り道、立ち止まって辺りをきょろきょろ見回す澁谷先生の不安な表情よ。フられた腹いせか、まだ諦めてないのか、わからないけど早くやめてもらわないと。
そうだね、と運転席に座る安室さんが同意する。助手席のわたしは右隣を見上げる。安室さんの表情に含みはなかった。…まさか忘れてるわけじゃあるまい、ちょっとバツが悪いぞ。


「安室さん、その節は本当にすみませんでした…」
「え?」
「助手にしてもらうまでにしでかした数々…何度尾行したか…!すみませんでした…!」
「ああ、もう気にしてないさ。都度撒いたしね」
「そりゃあものの見事に撒かれましたけども…!」


昨日のやりとりだ。澁谷先生を自宅まで無事見送ったわたしたちは安室さんの車で帰宅している途中だった。安室さんは進行方向を見つめたまま、苦笑いを浮かべる。


「僕を尾けるなんて物好きだなとは思ったよ」
「何言ってるんですか!安室さんが探偵じゃなかったら今ごろストーカーの一人や二人、警察のお世話になってましたよ!」
「はは。そうかな」


安室さん意外と危機感がないな…?!まったく偉そうなこと言えないけど安室さんの家なんてみんな知りたいと思うよ!「ちなみに今まで撒いたストーカーの数は…」とおそるおそる聞いてみると、なんだその質問はと笑われてしまった。


「べつに僕も人のこと言えないさ。仕事柄ストーカーまがいのことはしょっちゅうやるし。お互い様だな」
「ええ、寛容すぎません…?」
「君に言われたくないなあ」


わたし?思いながら安室さんの横顔を見上げると口元には笑みをたたえていた。安室さん、わたしのこと寛容だと思ってたんだ。突然の褒め言葉に気の利いた言葉が出てこない。へえ……嬉しいなあ……。にやにやしてしまうのを隠すようにわたしも正面を向く。


「というかこそ、何か困ってたりしないかい?」
「えっ、わたしですか?大丈夫ですよー」
「ならいいんだけど。これまで解決した依頼には恨まれそうなのもあったろう。特に君は不運だから」
「また不運って言う!」


もはや安室さんの十八番みたいになってるよ!それ言えばいいと思ってるのかねまったく!軽く二の腕をペシンと叩くと安室さんもあははと軽く笑った。仕事帰りの平和な時間だった。

今日も澁谷先生の退勤時間まで校門の近くで車を停めて待機していたものの、澁谷先生が出てきてからしばらくしても菅本先生は出てこなかった。ストーカーしない日もあるみたいだったので、今日はいないんだな、程度に思いお見送りを開始した。明日にでも澁谷先生に犯人がわかったことを伝えて、彼女の判断を仰ごう、と二人で話しながら、十分距離を取って追っていた。
澁谷先生の帰り道には杯戸公園がある。突っ切ると家までの近道なので毎日通ってるらしい。公園を通り抜けた先には下り階段があり、そこを降りて歩道へ出る。車は通り抜けできないので、いつも迂回して下で待ち伏せるのだ。今日もそうして、澁谷先生が降りてきたところを確認して車を発進させ、ようとしたところで、安室さんがブレーキを踏んだ。


「あの後ろを歩く男、妙だな」
「え?」


安室さんの視線を追うように前を見ると、おそらく彼の言う男の人を見つけた。澁谷先生から一定の距離を保ちながら壁に沿うように歩く、後ろ姿は中年のサラリーマンに見える。菅本先生より小柄だ、間違っても彼じゃない。


「まさか、二人目のストーカー…?!」
「ここ数日で澁谷先生が新しく知り合った人とも思えないな。…保護者か?」
「ほ、保護者?」
「わからないけどね。保護者だとしても自宅を知られるのは望むところじゃないだろう。ましてや尾けられるなんて」
「え、え、どうします…?!」
「……」


安室さんは眉をひそめ思案したと思ったら、路肩に車を寄せて停車した。驚いて身体が固まる。「少し話をしてくるよ」「え?!」エンジンを掛けたまま、シートベルトを外し出て行く安室さんについて行こうとするも左側の植込みにドアをぶつけそうで開けることができなかった。動揺してる間に「はここで待っていてくれ」と潜めた声で言われバタンと閉められてしまう。安室さん…?!大胆な行動に瞠目しながら、早足でサラリーマンに歩み寄っていくのを目だけで追う。先を歩く澁谷先生が角を右折した。その瞬間、安室さんが男の人の肩を叩いた。

あれから五分以上は経った。激昂した様子のサラリーマンの顔をなるべく目に焼き付けつつ、安室さんの後ろ姿をうかがう。…安室さん、さっき肩叩いたあと男の人の胸ぐら掴んだよね。澁谷先生のこと追わせないようにするためとはいえ血の気が多くてびっくりしてしまった。わたしと少年探偵団が冷蔵車に閉じ込められたときも犯人をパンチでノックアウトしたらしいし、元から好戦的な人なのかもしれない。そりゃあストーカーの一人や二人に動じないのも納得だ。
とにもかくにも、あのサラリーマンには諦めてもらわないと困る。早くしないとわたしたちも澁谷先生の警護ができなくなってしまうのだ。わたしだけでも澁谷先生を追おうか、と考えたところで、掛けっぱなしのエンジンの音に却下されるのだった。

それからまもなくして、安室さんの横を通り抜けてサラリーマンがこちらに歩いてきた。まだ気は治まってないらしく早足で、じっと見ていたわたしに気付くとさらに表情を険しくしていた。安室さんの関係者だと気付いたのだろうか。わからないけど、向こうもそれ以上何かをしてくることはなかった。じきに安室さんも戻ってき、ドアを開けて乗り込む。散々罵声を浴びせられたはずなのにケロッとしてるので感心してしまう。


「おまたせ」
「お、お疲れ様でした…あの人は?」
「澁谷先生のクラスの保護者だったよ。採点にクレームをつけようとしていたらしい」
「へえ…安室さん大丈夫でしたか?よく聞き取れなかったんですけど」
「ああ。とりあえず今日のところは引き取るって。明日にでも学校で会う約束を取り付けるから邪魔するなよって言ってたよ」
「そうですか…いや、もうどうなることかと」
「二人目が出てきたとなったらそうなるよ。これで今日菅本先生もいたらどうなっていたか」
「確かに…!」


安室さんが車を発進させる。菅本先生がどういう目的で澁谷先生を尾けてるのかわからないけど、ますますカオスなことになっていたに違いない。そう思うとわたしの、安室さんが何かあったときに犯人を尾けて守ろうって考えも、あんまりいいものじゃないのかもしれない。安室さんみたいに頭がよかったり腕っ節が強かったりした方がよっぽど健全に守れるだろう。どっちも難しいなあ。

澁谷先生に追いつく頃にはもう自宅に着いていた。彼女がドアを開け家へ消えていくのを見届けほっとする。今日は菅本先生がいなかったけど、まさか三人目が現れたりしたらたまったもんじゃない。澁谷先生への電話を終え、そのまま帰路につく。


「じゃあ、バイトはよろしく」
「はい!安室さんもよろしくお願いします!」


実は明日から三日間、ポアロの夜のシフトにわたしだけ入っているのだ。元のシフトは色々と違ったのだけど、澁谷先生の依頼が入ってから調整してもらい、夜の時間はほとんど梓さんに入ってもらっていたのだ。わたしはときどき入る程度で、安室さんは夜だけ完全に外してもらい、昼もストーカー調査のためまちまちだった。二人して梓さんとマスターに無理を聞いてもらっているのは自覚していた。
そもそも安室さんはバイトをしなければ時間の制約を受けずに済むのになあ。毛利さんの弟子を辞めればいい話なのに、なんでだろう。安室さんのことだから何が効率いいかなんてわかってると思うんだけどな。横目で彼を盗み見るも、何事もなかったようにハンドルを握って運転しているだけだった。


「安室さんって、なんで毛利さんの弟子続けてるんですか?」


目を瞠ったのが横顔でもわかった。やばい、不躾だった!慌てて目を逸らし俯く。


「あ、いや、わかってるんですけど…!でもわたしにはずっと優秀な探偵にしか見えなくて…」
「…ありがとう」


おそるおそる見上げると安室さんはにこりと笑っていた。すぐに正面を向いたけれど、失礼なわたしに怒る様子は見受けられなかった。ほっと胸をなでおろす。
わたしだって覚えてる。弟子入りのきっかけは加門初音さんの自殺の件だ。冤罪を招く推理をしたことを悔やんだ安室さんは、見事真実を突き止めた毛利さんを尊敬している。わかってるけど…。


「毛利先生の推理を聞いてると色々と勉強になるよ。だからまだしばらく続けるかな」
「そうですか…あ、あの、変なこと聞いてすいませんでした」


「謝るほどのことじゃないさ」笑顔のまま安室さんが言う。わたしも苦笑いをして肩をすくめる。安室さんに気を遣わせてしまった、反省しなければ。それに勉強熱心な安室さんに負けないよう、わたしも助手として精進しないと…!ぎゅっと拳を作る。

わたしのマンションの前で車が停まる。今度は問題なく開けられたドアから降り、安室さんへあいさつをする。


「ありがとうございました!おやすみなさい」
「おやすみ。また連絡するよ」


はい!と元気よく返す。バタンとドアを閉め、エントランスへ踵を返して歩いて行く。…また連絡するっていうのは、身辺警護の件で、他意はない。わかっててもなんだか恋人のやりとりみたいで浮かれてしまう。ふふっと一人にやける。安室さんの助手になって結構経つけど、未だにあの人のかっこよさには慣れないなあ。今でもまだ、得難いことに感じてしまうものね、安室さんのそばにいれるの。
オートロックの鍵を開けるタイミングで車のエンジン音が聞こえた。振り返ると、ちょうど彼の車が発進したところだった。安室さんは振り返ったわたしに気付いただろうか。暗い車内はよく見えなくて、安室さんの表情は少しもわからなかった。


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