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「お疲れさまでしたー」


マスターと梓さんにあいさつをしてポアロを出る。控え室でエプロンを外して上着を羽織り外に出ると、店内にいたときより空が暗く感じた。まだクローズまで時間はあるけれど、曜日によってはお客さんがいなくて店じまいをなんとなく始める頃だ。今日は休日なのもあってお客さんの姿は何組かある。歩道を歩きながらはめ殺しの窓を覗くと梓さんが子ども連れの親御さんから注文を取っていた。
マスターと目が合ったので笑顔で会釈をして歩き出す。上着のポケットに入れ替えた携帯を取り出して画面をつけてみたものの誰からの連絡もない。さっき控え室で返信したきり、安室さんからの返事もなかった。ちえーっと手頃な石ころを蹴る。と、前へ自分の影が伸びた。後ろから照らされたのだ。どうやら車のヘッドライトらしく、すぐ後ろで停車する音が聞こえ何となしに振り返った。


「…あ、コナンくん!」


さん」黒色のタクシーから降りてきたコナンくんに目を丸くしていると、続いて蘭ちゃん、支払いを済ませた毛利さんも降りてきた。今病院から帰ってきたのか、毛利さんたちもお疲れさまだなあ。思いながら踵を返して駆け寄る。


「おかえりー」
「ただいま!今日はあがり?」
「うん、そうだよ」
さん、お昼はありがとうございました」
「ううん、毛利さん声かける前に行っちゃったから何もしてないよ」


手を振ると毛利さんは苦い顔をしながら蘭ちゃんの後ろを通り過ぎ、テナントビルの階段を上がっていった。それを目で追いながら、「すごい剣幕でタクシー飛び乗ってたよ」と数時間前のことを思い出しながら教えると、彼女はなぜか嬉しそうに表情を明るくした。階段の上の方で蘭ちゃんを急かす声が聞こえると、彼女はそれじゃあとお辞儀をして階段を駆け上っていった。残ったのはわたしとコナンくんだけになる。
彼も蘭ちゃんのあとを追うかと思ったのだけど、何か用だろうか?わたしをじっと見上げるコナンくんに首を傾げる。


「…あ、毛利さんの奥さん、盲腸だったんだって?大事じゃなくてよかったねー」
「あ、うん…」


いやはや、安室さんからのメッセージにあった「急性虫垂炎」という病名には首をひねったものだ。梓さんに盲腸だって教えてもらってようやく納得できた。世の中知らないことばっかりだよ。
しかしコナンくんがまだ煮え切らない表情のままで内心焦る。このことじゃなかったか。だとしたら……。


「安室さんから事件のこと聞いた?」
「あっ、うん!」


やっぱりそのことか!思わず背筋を伸ばす。事件が病院で起きたことはついさっきメッセージで教えてもらった。「病院でちょっとした事件があったよ。もう解決したから心配いらない。明日詳しく話す」控え室で着替えてる最中に送られてきたのは記憶に新しい。ちょっとした事件ってどんなのだろう。病院内で起きうる軽犯罪を想像しながら、労いの言葉と、よろしくお願いしますとの返信をした。
わたしが事件のことを聞いていたからなのか、コナンくんは緊張を解いたように両手を頭の後ろに回して見上げた。


さんのことだから、事件が起きたって知ったら飛んでくると思ったのになあ」
「だって安室さん事後報告なんだもん!ひどいよねー、わたし助手なのに!」
「……え?」
「え?」


コナンくんの素っ頓狂なリアクションにわたしまで目を丸くしてしまう。まさかコナンくんわたしのこと助手って信じてなかったのか?!それはいくらなんでも薄情じゃないか?!「終わったあと教えてもらったの?」え?あ、そっちかあ。


「うん。さっき連絡もらったよ。もう解決したんでしょ?」
「……」


今度は険しい顔になった。何か変なことを言ってしまっただろうか。でも少なくとも間違ったことは言ってない。安室さんから毛利さんの奥さんは急性虫垂炎だって連絡が来て、そのあと事件が起きて、もう解決したって聞いた。うん、と一人頷いたはいいものの言い知れぬ不安に襲われ無意識に両手を握りしめていた。


「こ、コナンくん…?」
「あ、ううん……そうだ!事件のこと話そうか?僕もずっと安室さんたちと一緒にいたからわかるよ」


パッと声を明るくしたコナンくん。えっと一瞬心を動かされ、すぐにいやいやと考え直す。すごく気になるけど、今聞いてしまうのは安室さんに対して不誠実だろう。安室さんも「明日詳しく話す」って言ってくれたし、返信にもお願いしますって書いたしね。


「大丈夫!明日安室さんに教えてもらうことになってるから!」
「あ、そうなんだ。……安室さんのこと信じてるんだね」


何をそんな、わかりきったことを!大きな口を開けて笑う。


「もちろんだよ!だって安室さん、わたしのこと……」

「コナンくんー?早く帰ってきなさーい」


あっ。蘭ちゃんの声に被ってしまった。三階の玄関から呼ばれたコナンくんが慌てたようにはーいと返事をすると、この場には気まずい空気が流れた。いや、それはわたしだけなのかもしれないけど。パタンとドアの閉まる音が聞こえ、コナンくんは真剣な表情ですぐさま続きを促した。


「で、安室さんが?」
「あ、だから…安室さんはわたしのこと…見捨てないって…」
「……」


コナンくんがちょっと目を見開く。な、なんか改めて言い直すと恥ずかしいな?!握り込んだ手はいつの間にか力が抜けて、代わりに手汗をかいてしまう。「それ、安室さんが言ったの?」「う、うん…」原文ママではないけど、同じことを言ってくれた。けれどこれ以上わたしが力説するのはなんだか恥ずかしくて、さっきの勢いはどこへやら、一刻も早く立ち去りたい気持ちになっていた。あれは安室さんが言ってくれたからよかったんだ。わたしが人に言うのは何か違う。
そういえばあのときの安室さん、すごく苦しそうだったな。悪いことしたのはわたしなのに、どうしてだったんだろう。


「そっか……あ、じゃあ、僕帰るね」
「うん、おやすみ…」


あははとはにかんで踵を返す。 安室さんがわたしを見捨てないと信じているのは、これまで彼と一緒にいて感じた直感みたいなものもある。ミステリートレインで失態を犯したわたしの泣きつきに、安室さんは見捨てないと言ってくれた。きっとその場しのぎの嘘言ったんじゃないよ。安室さんに優しくされたり助けてもらったりするとそう思える。だから安室さんに恥じない生き方をしたいと思うし、わたしも安室さんを絶対に見捨てまいと思うのだ。
そう、それに安室さん、「誰かのところに行ってほしくない」って言ってくれたし!


「あ、ねえさん!」


階段を登る途中のコナンくんから再度声をかけられる。振り返り、タンタンと降りる足音を聞く。ひょこっと階段の入り口から顔をのぞかせたコナンくんがじっとわたしを見つめた。


「安室さん、人探してたみたいなんだけど、何か聞いてる?」
「え、そうなの?知らない…」


正直に返すと、コナンくんは何かを確信したように口角を上げて笑い、「そっか、ならいいんだ。お休みなさい」と言って階段を駆け上がっていった。醸し出す雰囲気がなんだか大人みたいに見えた。
探してたって、誰をだろう?気になるけど、明日聞いてみればいっか。わたしは再度方向転換し、駅への帰路につくのだった。


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