88 「そうだ。夜の仕込みは大丈夫ですか?」 「ええ。在庫も十分あるし、足りないものはマスターが買ってきてくれるから」 「そうですかー」 「もしかして、調理やってみたかった?」 顔を覗き込むように首を傾げて笑う梓さんにギクッと肩を跳ねさせる。ちがう、図星じゃないよ! 「違いますよー!お皿拭きわたしやるので梓さんは仕込みやったほうがいいんじゃないかなーって思ったんです!」 「そう?今なら時間あるから教えられるのに」 「だ、大丈夫です!」 顔の前でぶんぶん手を振って断る。もちろん梓さんの厚意を無下にするのは心苦しいけど、やっぱりいきなりやれと言われてもプレッシャーがすごい。せめて心構えをしてから挑みたいよ。クスクス笑う梓さんに恥ずかしくなってはにかむ。それにしても、梓さんからも言われるとなるとわたしもいよいよ次のステップに進むときが来たんだなあ……今までドリンクとデザートの盛り付けだけを生業にしてきた素人が人様に提供する食事を作るなんて、ちょっとかなり緊張するよ。でもきっとマスターもいい加減できるようになれと思ってるに違いない。今日帰るときレシピ借りれたりするかな…。はあ、と思わず溜め息をついてしまう。 「そんなに気が重いの?」 「重いですよー…」 「そう…なんだかこんなちゃん見るの初めてだから意外に思っちゃうわ」 浮かない気分のまま顔を上げると梓さんが握った手を自分の口の前に持ってきていた。ちょっと上がった口角が隠れている。よっぽど憂鬱そうに見えるのかな。えへへ、と力なく笑ってみれば梓さんも困ったように眉尻を下げた。 「もちろん誰にでも得意不得意はあるし、無理にやれなんてマスターも安室さんも言わないだろうから安心してね」 「ありがとうございます〜…。でもできたらいいなとは思うので、今日空いた時間でレシピ見させてください!」 「わっ、えらーいちゃん!もちろんよ!」 梓さんに褒められて鼻が高くなる。こりゃー何が何でもできるようにならねば!早速と梓さんがお皿と布巾を調理台に置き、下の収納扉を開く。扉の内側に備え付けの薄いラックがあり、そこにピンクとイエロー二種類のA4サイズのクリアホルダーが入っていた。イエローのホルダーを取り、調理台に広げる。 「こっちが軽食のレシピよ。一通り手順は書いてあるわ」 「ありがとうございます!」 ポアロは喫茶店でありながら軽食のメニューも充実しているのでレシピもそこそこの量がある。ピンクのクリアホルダーにまとめられていたドリンクのレシピだけで手一杯だった頃を思い出すとやっぱり気が重いのだけど、やるしかないと自分を律してそれと向き合う。「わからないことがあったらわたしや安室さんに聞いてね」…あ、それバイト初日にも同じようなことマスターに言われたなあ。 「はい!…へへ、安室さんとわたし働き始めたの二日しか変わらないのに、全然できなくて恥ずかしいです…」 「安室さん要領いいものねえ。それにちゃんは大学があるし、その分どうしても差が出てくるのよ」 「確かにそれもあるかもですけど…」 安室さんの要領の良さは何なんだろう。秘訣があるならぜひ教えてほしいよ。あ、でも調理に関しては、日頃からお家で自炊してる賜物かなあ。わたしと違って料理に抵抗がないのだろう。むしろ向上心すらある。わたしも安室さんに差し入れするために何か作ることはあるけど、基本的には自分が食べられればいいからなあ。ほんと安室さんすごいなあ…。 「安室さんと比べたらわたしだって全然よ。あの人、びっくりするくらい仕事覚えるの早いし、愛想もあって人当たりも抜群でしょう?頭もすごくよくてマスターからの信頼も厚いし……わたしもつい頼っちゃうのよね」 顎に人差し指を当て安室さんの長所を述べる梓さん。わかってたけど梓さんから見た安室さんの評価は相当高い。きっとマスターも同じだろう。安室さん、誰から見ても百点満点の高評価を得るんだろうなあ。「だからときどき急に早引きするのも、まあ、仕方ないかなーって思っちゃうのよね」肩をすくめて苦笑いする彼女にわたしもぎこちなく口角を上げる。早引きはともかく、探偵の依頼があると安室さんとわたしはポアロのシフトを急に変更してもらったりするので、融通を利かせてくれるマスターや梓さんには頭が上がらないのだ。 「わたしは太尉の飼い主探しのときにちらっと見た程度だけど、安室さんのことだから探偵としてもすごいんでしょう?」 「もちろんです!冷静だし鋭いし頭の回転は早いし、依頼も期待通りの結果をすぐ出しちゃうんですよ!わたしなんて出番ないときたくさんあるんですから!」 他にも犯人をパンチで伸すほど腕っ節も強いし演技もできるし、尾行を撒くのなんてお手の物だ。わたしは安室さんと出会ってから何度も彼のすごいところを見てきた。わたしがいなくても支障ないほど一人で何でもやってのけてしまう安室さん。ときどきヘコんでしまうほど、そのイメージは事実と遜色ない。 そうなのねえ、と感心する梓さんに頷いて、ふと、違和感を覚えた。梓さんにではない。安室さんにだ。わたしの抱く安室さんのイメージと、現実の安室さんには少しのズレがあった。 あんなに優秀なのに、なんで安室さん、毛利さんの弟子を続けてるんだろう。 |