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パンパンに中身の入った紙袋をいくつも抱え浮き足立つ毛利さんをガラス越しの歩道に見かけたものの、声をかける前に階段を登ってしまい蘭ちゃんからの伝言を伝えることは叶わなかった。運んでいた空のグラスを急いで下げて外に出るも、階段を見上げたときには彼が血相を変えて降りてきてタイミング良く通りを走っていたタクシーを捕まえて飛び乗ってしまったので何も言えなかった。……多分蘭ちゃんの連絡を見たんだろう。うん、と一人頷き、何もできなかった無力感には見て見ぬ振りをして店内に戻った。

それから一時間くらい経っても安室さんからの連絡はなかった。用事が長引いてるのだろうか?それとも毛利さんの奥さんが……と嫌な想像をしてしまう。自然と作業の手はおろそかになり、スカートのポケットに入れた携帯ばかり気にしてしまう。もしこのまま連絡がなかったら、蘭ちゃんに電話してみようかなあ……。
さっきからずっと落ち着かないせいで、テーブルを拭いていた布巾を誤って床に落としてしまった。慌ててしゃがんで拾う。


「大丈夫、ちゃん?」


ハッと顔を上げると梓さんが心配そうにわたしを覗き込んでいた。急いで膝を伸ばし、肩をすくめる。


「すみません…」
「ううん、いいのよ。毛利さんの奥さんのことが心配なんでしょう?」


お昼のことは梓さんにも話してある。二人とも本人との面識はないけれど、お世話になってる毛利家の不幸について心配だと話していた。ちなみに梓さんはクローズまで入ってるので、安室さんから来るであろう速報を当てにしてるのだ。わたしが苦笑いで頷くと、梓さんは頬に手を当て一つ息をついた。


「安室さんからまだ連絡ないのよね?」
「はい…多分前の用事が長引いてるんじゃないかと」
「そっか。うーん…倒れたって聞くと、何でもありそうだから怖いわよね」
「ですね…」


お茶の時間で店内が賑わってるのをいいことに小声で話す。梓さんが代わりに最後まで拭いてくれたテーブルは、来店した二人組のお客さんですぐに埋まった。呼ばれるまでカウンターに下がろうと踵を返すと、「ちゃん」と呼び止められる。もちろん梓さんだ。


「はい」
「早引きできるかマスターに聞いてみようか?」


「えっ」思わず大きな声が出てしまった。慌てて口を押さえ、軽くあたりを見回す。幸い店員の無駄話に不快感を示したお客さんはいなかった。


「えっと…」
「今はまだ残ってほしいけど、あと少ししたら落ち着くから大丈夫よ?」
「う、うーん…」


二人でカウンターに戻りながら会話を続ける。梓さんが振り返ったのにつられてわたしもちらっと振り返ってみたけれど、今来たお客さんはメニューを広げてまだ思案中のようだった。
梓さんからの提案について考えてみる。無意識に手を顎に当てていた。早上がり、とても魅力的だ。今から病院に向かえばどうあっても面会時間には間に合うだろう。蘭ちゃんたちもいるに違いない。よく考えたらバイトが終わったあと一人で行っても部外者の人間が毛利さんの奥さんを見舞えるとは思えないから、行くなら今しかない。でも……。


「大丈夫です!」


きっぱり言い切ると梓さんも「そう?」と頬に手を当て首を傾げるだけで強要はしなかった。今日は休日だし梓さんも行け行けという感じじゃない。きっとわたしのこと気遣ってくれたんだ。つくづく優しさが沁み入る。そうだ、ただでさえ安室さんとわたし、探偵業の関係で早引きとかドタキャンするって宣言してるのに、プライベートでまでお店に迷惑かけられないよ。毛利さんの奥さんのことは気になるけど安室さんがお見舞いに行くはずだから待ってればいいのだ。拳を作って力を込めるとやる気がみるみる湧いてくる。


「それに梓さんには冬にもわたしの穴埋めてもらいましたし!今日は最後まで頑張りますよー!」
「クリスマス前のあれのこと?全然気にしなくていいのに」


あははっと二人で笑う。ポアロは安室さんを通して働き始めたお店だけど、ここを知れて本当によかったと思う。従業員さんは優しいし滅多に変なお客さんも来ないから穏やかに働ける。安室さんがいなくても楽しいぞー!


「……おっ?」


スカートのポケットで振動を感じた。カウンターの下に隠すようにエプロンの下からポケットに手を入れ、携帯を取り出す。予想通り、安室さんからのメッセージだった。内心喜びながらロックを解除する。もしかしたら安室さん、今わたしが安室さんがいなくてもーなんて言ったから怒ったのかも!なんて都合のいいことを考えながら本文を開く。「すいませーん」あっ。


「はーい!」


くっ、いいところで呼ばれてしまった…!梓さんもいつの間にか別のお客さんを接客中だ。泣く泣く携帯をしまいカウンターを出る。それにしても安室さん、本当に前の用事が長引いたんだなあ。歩きながらちらっと時計を見ると、時刻はもうすぐ四時になろうとしていた。


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