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今日のシフトではお昼すぎに安室さんと入れ替わりで入る予定だ。家にいてもすることがなかったのでちょっと早めに来ると店内もいい感じにお手隙で、休日でこれは大丈夫なんだろうかと密かに心配してしまう。とはいえ先週の土曜は忙殺されたから、今日はこういう日なんだろうと納得するしかない。薄桃色のエプロンを後ろ手で結わきながらカウンターキッチンへ目をやると、安室さんと梓さんがこれから迎えるお昼のピークに備えてキッチンで仕込みをしている最中だった。残念ながら手伝えることはなさそうだと目を逸らす。未だにドリンクしか作れないわたしに二人の手際の良い共同作業を羨ましがる資格はないのだ。
辺りを見回して、ふむと考える。店内と外の掃除もしてあるし、控え室もこないだしたばっかだ。早く来たはいいもののここでもやることがないぞ。スイングドアを通り抜けフロアに立ってみたたけれど何も思いつかない。


「マスター、何かやることないですか?」


手持ち無沙汰を予感しこれはまずいとマスターに尋ねてみると、ラッキーなことに買い出しを頼まれた。よっしゃー!歓喜の表情で了承する。


「もちろんです!何買ってくればいいですか?」
「買い出しなら僕が行きますよ」


カウンターでメモ用紙にボールペンを走らせるマスターへ駆け寄ると、フライパンでの調理がひと段落したらしい安室さんがキッチンから声をかけた。わざわざなんでだろう?不思議に思ったところ、どうも安室さんはあと少しで上がりだから買い出しに行ってそのまま帰るとのことだった。


、また着替えるの面倒だろう」


安室さんの親切に、気が利く人だなあと感心しつつ顎を引く。…わたしにはわかるぞ。ポアロの仕事を網羅している安室さんと調理ができないわたし、どちらが買い出しに適しているか。しかも今マスターがくれたメモによると人手は一人で十分そうだ。スーパーは歩いていける距離だし、車が必要な任務ではない。こういう雑務は甘んじて引き受けたい所存である。
しかし安室さんも口だけの優しさではなく本当に代わろうとしてくれてるようで、スイングドアを通ってこちらに歩いてきた。目の前で立ち止まり、「?」目を丸くして首を傾げる。即答しないわたしを不思議に思ってるようだ。確かに、エプロン脱いで上着着て靴を履き替える手間はあれど……。


「……いやっ!わたしが行きますよ!」


背筋をピンと伸ばして言い張る。「安室さんは仕込みお願いします!」メモを両手で握り締めると、安室さんはきょとんとした顔から一転し、苦笑いを浮かべた。どうやら皆まで言わなかった考えが伝わったようだ。


「了解。今度も調理覚えるといいよ」
「は、はい……いえどうも苦手意識が」
「料理は家でやってるんだろう?」
「プレッシャーが違うんですよ〜」


それはそれ、これはこれだ。商品として出すには自信がない。もちろんレシピがあるから作れないことはないと思うけど、何かありそうで怖い。逃げ腰になるわたしに安室さんは軽く笑って、「じゃあ、買い出しは頼むよ」と軽く手を挙げ踵を返した。仕込みを再開するのだろう。わたしも肩をすくめて、いってきますと裏口へ下がった。

…安室さんに頼んだらレクチャーしてくれそうだったなあ。直接聞いたことはないけど、いいよって言ってくれそうだ。前に安室さん家で一緒にご飯を作った経験を生かし、ポアロのカウンターキッチンで指導してもらう妄想をしてみる。……ときめくしかない!
いいなー!瞬く間に上がったテンションのまま、一人にやにやしながら外出の支度をし、軽い足取りでスーパーへ向かうのだった。





量もそこまでじゃなかったので三十分くらいで用は済んだ。両手にビニール袋を提げて歩道を歩いていると、丁度ポアロの脇の階段から蘭ちゃんとコナンくんが駆け降りてくるのが見えた。見るからに急いでる様子だ。なぜか歩道で立ち止まって携帯を開いた彼女に思わず声をかけてしまう。


「蘭ちゃん、コナンくん」
「あっ、さん、こんにちは…」
「こんにちはー。どうしたの?」
「それが、母が職場で倒れて病院に運ばれたらしくて…」


「えっ?!」思いもよらない出来事に素っ頓狂な声をあげてしまう。お母さんが……それは心配だ。眉尻を下げて不安そうにしている蘭ちゃんに何か励ましの言葉を掛けようと一歩近づく。


「だ、大丈夫だといいね…」
「はい…それでこれから病院に行くところなんです」
「あっ、そうなんだ…!ごめんね引き止めて!」
「いいえ!そんな、」


咄嗟に半歩引いて謝ったタイミングで車道にタクシーが止まった。どうやら呼んでいたらしい。後部座席が自動的に開き、最初にコナンくんが乗り込んだ。続いて蘭ちゃんも乗り込もうとしたのだけれど、あっと何か思い出したように振り返った。


「あの、もし父が帰ってきたら杯戸中央病院に来るよう伝えてもらえますか?一応携帯に連絡は入れてあるんですけど、まだ返事がなくて…」
「わかった!杯戸中央病院だね!」
「あ…さん!」


今度は蘭ちゃん越しに顔を出したコナンくんに呼び止められる。うん?と身体を横に傾け彼と目を合わせる。


「今日安室さんは?」
「安室さん?」


答える前に首を捻り背後のはめ殺しの窓を覗く。わたしがいない間に入店したお客さんと、歩き回る梓さんとカウンターに立つマスターが見えた。目的の人物がいないことを確認し、腕時計を見ながら振り返る。


「安室さんもう上がっちゃったと思うよ、今日お昼までだったから。何か用事あった?」
「…ううん、大丈夫!ありがとう」
「いいえー」


手を振り、ドアが閉まって発進するのを見送る。毛利さんの奥さん、心配だな。何ともないといい。毛利家の家庭事情はあまりよく聞いてないのだけど、別居中なんだっけ。とはいえ毛利さんも心配するんじゃないかなあ、どこ行ってるんだろう。もし蘭ちゃんの連絡に気付かないで帰ってきたら教えられるように外を気にかけてよう。
と、後ろでお客さんが一組入っていったのに気が付いた。やばいやばい、早く戻らなきゃ!ビニール袋を持ち直し、慌てて裏口へ向かった。



「あっ安室さん!」


ビル内の通路を小走りで駆けて行くと丁度従業員控え室を出た安室さんと遭遇した。まだ帰ってなかったんだ!先ほどのコナンくんを思い出しながら彼に駆け寄る。仕事中とは違ってベージュのショート丈のコートを着た安室さんはこちらに気付くと同時にドアを閉める手を止め、小さく笑みを浮かべた。


「おかえり」
「ただいまですー。今上がりですか?」
「ああ。もう帰るところだよ」
「お疲れさまです!…そうだ安室さん!大変なんですよ!」


「え?」首を傾げた安室さんに、毛利さんの奥さんが職場で倒れて病院に運ばれて、今さっき蘭ちゃんたちも向かったことを話した。安室さんはえっと驚いたような表情を見せたあと、「それは心配だな」神妙そうに顎に手を当てた。


「毛利さんの奥さん、弁護士って言ってましたよね。何ともないといいんですけど…」
「そうだね。とは言え、僕らがここで話していても仕方ないよ」
「ですね…」


ああでも、心配だなあ…。蘭ちゃん顔色悪かった。お父さんの毛利さんと連絡が取れなくて不安だろうし、コナンくんがいるとはいえ心細いだろうなあ。でも安室さんの言う通りわたしに何かできるわけでもないし…。今日バイト終わってから様子見に行くんじゃ間に合わないよなあ。こんな日に限って夜まで入ってるよ。


「安室さん、杯戸中央病院ってここからどれくらいですか?」
「杯戸中央病院?」


一瞬、安室さんの両目が見開かれた気がした。驚きとも不安とも違う表情。けれどそれはすぐに元通りになり、最寄駅と大体の所要時間をスラスラと教えてくれた。


「毛利先生の奥さん、杯戸中央病院に運ばれたのかい?」
「はい。蘭ちゃんに、毛利さんが帰ってきたら伝えてくれって頼まれました」
「そうか…」


安室さんは再び顎に手を当て思案し始めた。それから「なら、」と顔を上げるまで三秒もかからなかったと思う。


「あとで僕が様子を見てくるよ」
「えっほんとですか?!」
「ああ。丁度そこに入院している知り合いに用があるんだ。今日は他にも用があるからそっちを済ませてからになるけど」
「わーよかった…!わたし今日夜までだったのでどうしようかと思ってたんです…!」
「あとで連絡するよ。はバイト頑張って」
「はい!ありがとうございます!」


ひらりと手を振りわたしの横を通り抜ける安室さんにお礼を述べながらお辞儀する。安室さんが行ってくれるなら安心だ!きっと蘭ちゃんたちもわたしが行くより心強いだろう。ああよかった。なんだかもう心配事が解決したみたいにホッと胸をなでおろ、そうとして、手に握られたビニール袋を思い出した。やばい早く戻らなきゃ!


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