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雨澤さんが去ったあと、全体は最後である益子さんの実験に取り掛かった。さっきの珍プレーからまだ気を取り直せていないわたしは、苦笑いで羞恥心を押し隠しつつ階段に座って大尉を見ていた。梓さんにも心配されてしまったけれど、手当てするほどのことでもないので立ち会いは続行させてもらうことにしたのだ。コツコツとドア越しに益子さんの足音が聞こえてくる。


(あ、)


なんと、大尉が反応したのだ。ドアへ顔を向けたと思ったら、すぐさま姿勢を正した。まるで益子さんによって扉が開かれるのを待っているようだ。わーすごい、こんなはっきり反応示すんだ…!わたしは摩訶不思議な体験でもしたような気分になり、高揚した心のまま彼を観察していた。
前の二人と同じようにドアノブを捻り、益子さんと大尉は対面した。「そ、漱石…」行儀よく待っていた大尉を見て驚いたように名前を呼ぶ益子さん。偉大なる文豪を頭に思い浮かべながら、それが大尉の本当の名前なんだと察する。大尉の本当の飼い主は、益子さんで間違いない。

なんでも猫というのは耳がとても良くて、飼い主の足音をちゃんと覚えてるのだそうだ。テレビで見たというコナンくんに知識が豊富だなあと感嘆しながら、踊り場から事務所へ戻る。足音で大尉の反応を見るための実験だったそうで、わたしの考えてた意図より数倍奥が深かった。やっぱりコナンくん天才少年だなあ。


「ねえ、引っ越しのときに猫がいなくなったって言ってたけど、そのとき使ったのってチーター引っ越しセンター?」


コナンくんの問いかけに対し肯定した益子さんに、少年探偵団がそっかと得心する。前に大尉がコンテナに乗り込んだのはチーター宅配便のクール便だったのだ。「同じマークのトラックに乗れば帰れると思って…」大尉の行動にちゃんと理由があったなんて驚きだ。でもそれなら納得できる。何はともあれ、無事大尉の飼い主が見つかって本当によかった。大尉と、彼を抱きかかえながらくしゃみを繰り返す益子さんを見て、わたしはほっと胸をなでおろしたのだった。


一階へ降りた益子さんは、階段の前で毛利さんたちにお礼を述べた。外はいつの間にかもう夕暮れで、知らない間に結構時間が経っていたことを実感させられる。


「じゃあねー大ちゃん!」
「元気でなー!」
「もう逃げちゃダメですよー!」


飼い主と一緒に帰っていく大尉へそんな送別の言葉を投げかける少年探偵団に並んで見送る。大尉との思い出を振り返るといろいろあったなあと思うよ。もちろん一番心に残ってるのは、少年探偵団とコンテナに閉じ込められたあの件だ。あのとき、コナンくんの作った暗号を首に挟んだ大尉はちゃんとポアロに辿り着いたのだけど、肝心の暗号のレシートは風に飛ばされて結局見つからなかったのだ。
あのときはほんと、どうなるかと思ったよねえ。思いながら当事者の少年探偵団を見下ろす、と、彼ら三人はうるうると目に涙を湛えているではないか。ぎょっと驚いてしまう。大尉との別れがつらいんだとすぐに察したものの何て声をかけてあげたらいいのかわからない。「あ…わ…!」どうするべきか思いあぐねている間に、様子に気付いた益子さんは引き返し、胸ポケットから名刺を取り出した。


「これが私の住所とメールアドレスだよ。都合が合えば会いに来るといい」
「ホント?ありがとー!」


益子さん親切な人だなあ…!堪える表情を一変させ嬉しそうに笑顔を見せた彼らにほっとする。「よかったねえ」「うん!」名刺を受け取った歩美ちゃんに笑いかける。


お姉さんも一緒に行こうね!」
「ぜひ!行きたいー!」


わーいと手を握って拳をつくる。益子さんも子供たちの笑顔に安心したのか、再度背を向け歩き出したようだった。くしゅんくしゅんとくしゃみを繰り返す彼が気になりつつも、全部丸く収まってよかったとにこにこしながら見送っていた。


「ほら、猫だけに」
「ダジャレですか?」


ふと、安室さんと梓さんのやりとりが耳に入り振り返る。あれ、そういえばすっかり忘れてたけど、二人って今日ポアロのシフト入ってたんじゃ…?大事なことを思い出しにわかに戦慄する。けれど、わたしが言い出すより先に「じゃあ、わたし先にポアロ戻ってますね」と梓さんが言ってお店へ戻っていったのでとりあえず大丈夫そうだ。もうすぐ夜のピークが来るはずだからさすがにマスター一人で回すのはキツイだろう。「あ、僕もすぐ行きます」彼女の背中へ投げかけるように伝える安室さんの元へ駆け寄る。


「安室さん」
「ん?…アザすごいね」


呆れたような声にハッとして脛を手で隠す。階段の二、三段目にぶつけた患部には見事、間を開けて二箇所に横長のアザができていた。特に痛くはないけれどさっきの変な体勢を見られたことを思い出して恥ずかしくなる。


「そ、それは置いといて!」
「はいはい。なんだい?」
「安室さん、実験する前から大尉の飼い主が益子さんってわかってたんですか?」
「まあ、薄々はね」


サラッと肯定されこちらが動揺してしまう。そ、そうだよね、明らかにわかってそうな物言いだったもんなあ…。でもそれならわざわざ毛利さんに依頼なんて形を取らなくてもよかったんじゃないかと思ってしまうけど、いかんせんそのときの流れを見てないからどうとも言えないなあ。


「というか、あの猫は大尉じゃなくて漱石だろう」
「あ、本当の名前はそうみたいでしたね」


腕を組み言う安室さんに返す。ちゃんとは言われなかったけど益子さんは大尉のことをはっきり「漱石」と呼んでいた。やっぱり夏目漱石から取ってるのかな?とまで考え、彼の有名な著作のタイトルを思い出してひらめく。…それで漱石か…!なるほど、と益子さんのネーミングセンスににわかに笑いが漏れそうになる。
でもそれとこれはまた別だ。わたしは今更、大尉の呼び方を変えるつもりはなかった。ふんと得意げに鼻を鳴らして腕を組む。


「でもわたしたちにとっては大尉ですしね!なにも本当の名前だけが彼を指すわけじゃないので、いいんです!」


「……」安室さんの息が詰まったように感じた。見上げると彼は目を見開いてわたしを見下ろしていて、もっと言うと双眸は彼らしくもなく揺れてるように見えた。思わぬリアクションにわたしもキョトンと目を丸くしてしまう。


「あむろさん?」
「…ああ、君はそういう考えなんだな」


口元を隠しながらふいっと目線を右下へ逸らす安室さん。まるで突き放すような台詞だったけれど、声音は穏やかで、受け入れるような、……いいや、受け入れてほしいような……。ニュアンスが汲み取れなくてもどかしい。ぎゅっと口を噤む。
安室さん、ときどき一人ぼっちの男の子みたいな顔する。こんなに立派な大人の人なのに、ふとしたときにどこかに置いてきた少年が滲み出すのだ。そんな彼を見るたび、わたしは堪らずぎゅうと抱きしめたくなる。安室さん相手に庇護欲に駆られるのだ。ほらわたし、安室さん守りたいと思ってるからさあ。こくんと頷き、うかがうような上目遣いのまま口を開く。


「悪いことじゃなければですけど…」
「悪いこと以外に、違う名前が必要なことなんてあるのか?」


首を右へ傾けた拍子に前髪が安室さんの目を隠す。彼の儚げな表情は存在すらおぼつかなくさせる。話題と表情がミスマッチだと思う、のはわたしだけなんだろう。安室さんからしたら今の話はまさに、安室さんを不安定にさせるのだ。わたしは安室さんが消えてしまいそうな不安に駆られながら、下手なことは言うまいと丁寧に言葉を紡ぐ。


「わたしたちに大尉って名前は必要だったので…そういうこともあると思います」


安室さんは何かに気付いたように目を瞠り、それから穏やかに細めた。「そうだね」張り詰めていた緊張を解くような笑みに、わたしの言ったことは安室さんを傷つけなかったんだと直感した。無意識にわたしも緊張してたみたいでほっと息をつく。よかったあ。どこらへんが正解かわからなかったけど、よかった。「…あ!」そうだ大尉といえば!


「それにしても安室さん、わたしまさか大尉にまで負けるとは思いませんでしたよ!」
「え?」
「大尉ご指名のお客さんが三人も!地味に差をつけられました…!」
「ああ…」


さっきまでの儚さはどこへやら、わたしの力の入った主張に安室さんは表情を一変させ、「さすが少尉だね」と呆れ顔で言った。前話した階級の話だ。だとしたら安室さんたちはどこら辺の階級になるんだろう。今度調べてみようではないか。
ともかく、現状わたしがポアロの指名競争ではビリケツなことには変わりない。だがしかし!と腰に手を当て胸を張る。実はわたし、ここから挽回すべくある秘策があるのだ!


「まあでも、わたしにも強力な助っ人ができましたから、ここからですよ!」
「助っ人?」
「はい!」
「…またロクでもないこと考えてるんじゃないだろうな」


訝るようにわたしを見据える安室さんに目をパチクリ瞬かせる。ロクでもないこと?首をかしげると、安室さんはふいっと目を逸らした。その視線を辿ると、四人で輪になって話す少年探偵団の姿があった。……少年探偵団がどうかしたのかな?


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