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三毛猫の飼い主が判明し本当の家へ連れ帰られてから二週間も経たないうちに、紆余曲折を経て彼は梓さんの元へと戻ってきた。一度飼うことを決心したもののすぐに手放すことになった彼女は表面上平気そうに振舞っていたがやはり残念に思っていたのだろう、再び猫を飼えることを心から喜んでいた。本当の飼い主である益子さんから梓さんへ渡った経緯には血生臭い事件があったのだとから聞いていたが、気にさせても可哀想だからと彼女には伏せられていた。表向きは猫アレルギーの益子さんが一度は連れ帰ったものの長く飼うことが難しいため、引き取り手を探していたということになっている。

世の中には知らない方がいいことがたくさんある。必要な嘘もある。この件に関しても同じことが言えた。数日前、ポアロの前で大尉を抱きかかえる梓さんのそばで一緒に喜ぶを眺めながら、そんなことを思っていた。


僕の嘘も彼女にかかれば正当化されるのだろうか。


悪いことを悪いと判断できる道徳心を持っているくせに寛容すぎると思ってしまう。僕のことなんて何も知らないくせにまるですべて許されそうで恐ろしい。君は、「安室透」が嘘の存在で、本当はいないとしてもいいのだろうか。出会ったときから嘘をつかれているなんて夢にも思っていないだろうに、それでも僕を受け入れるというのだろうか。あまり心が広くても不審がるよ。なんて、僕にそんな偉そうなことを言う資格はないのだが。



休日の昼のピークを終え、店内も落ち着きテーブルの片付けが大方済んだ頃のことだった。夜も同様に混雑するだろうと当たりをつけ、料理の仕込みに取り掛かるべくキッチンカウンターへ戻る。
誰も座っていないカウンター席の後ろを歩いていると、ふと、壁掛け時計に目をやるが目に入った。クリーム色のエプロンを身につけた彼女は今日、フルでシフトが入っていた。僕も同じだったため彼女のことは朝から見ていたが、今日はやけに時間を気にしているように見受けられた。休憩は先ほどとったはずだし、クローズまでは時間もかなりある。一体何をそんなに。少し気になり、声をかける。


?」
「あっ、はい」
「どうかした?さっきから何度も時計を見てるようだけど」
「あ…はい!実は…」


気のせいじゃなかったのか。あっさり認めた彼女はそれから店内のお客さんを確認するように周囲に目を配ったあと、僕に一歩近づき潜めるような声で告げた。


「今日、わたしご指名のお客さんが来ることになってるんです…!」
「は?」


興奮を隠せないといったように目を輝かせるについクエスチョンマークを浮かべてしまう。それからすぐ、この前言っていた話だと合点が行く。自分の固定客を作るための助っ人ができたとか何とか。どうせ少年探偵団の彼らに来てもらうよう頼み込んだってところだろう。クール便のコンテナに閉じ込められるという危機を共に乗り越えてから、彼らとの友情を着々と育んでいるのは知っていた。…というか、だからポアロはそういう店じゃないんだが。

カランカランとドアベルが鳴る。背を向けていた僕らが同時に振り返り、迎え入れるあいさつを唱える。「いらっしゃいませ、……」入店した人物に目を見開く。


「あっ南くん!ようこそいらっしゃーい」


隣で固まる僕を余所に入り口の彼へとパタパタ駆け寄る。それだけですべてを察した。………。吸い込んだ空気をすべて溜め息として吐き出す。呆れと、一瞬熱くなった心臓を冷やすためのものだった。


「遅くなってごめんね。梅島さんと高梨さんに声かけたんだけど予定合わなくて。一人で来ちゃった」
「来てくれただけありがたいよー!お席どうぞー」


意気揚々と南さんを窓際の席へ案内する。店内のお客さんはソファ席に二人組の男女が座っているだけで、彼らはたちを一瞥したあとすぐに会話を再開させていた。「ご注文どうします?」「えっとー…」即刻二人の世界に入ったたちに視線を戻す。………いや、ちょっと待て。思わず握った手を自分の眉間に当てる。僕の個人的な感情は置いといて、のやっていることは一言咎めるべきことだろう。おそらく冷静であろう頭で考えキッチンカウンターへ戻ると、注文を取り終わったらしいもスイングドアを抜けてやってくる。その表情は、いっそ清々しいほどに得意げだった。


「どうです!」
「…彼が助っ人ってことだね」


「そうですー!」嬉しそうに笑うにこれ見よがしに溜め息をつく。この子は、自分がいかに軽率な行動をしているか気付いてないのか。まともな判断能力を持ってると思っていたが認識を改めるべきか。などと彼女の評価を下げようとばかり考えてしまうが、客観的ではない気がすることも自覚していた。ちら、と窓際のソファ席に目を遣ると、こちらをうかがっていたらしい彼と目が合う。照れ臭そうに肩をすくめてはにかまれては、こちらも愛想笑いを浮かべるしかない。軽く会釈をし、に向き直る。…こっちも勝ち誇った顔して…。まるで唐突に花畑にでも放り出されたような気分になり怒る気が失せてくる。


「…ストーカーの方はもう大丈夫なのか」
「大丈夫みたいです!とはいっても、南くんって実害がないと気付かなさそうですけどね」
「君も南さんも危機感がなさすぎるんじゃないか…」
「そうかもですけど、いつまでも気にしてたら悪いじゃないですか!」


「……。そうだね」僕もべつに、警察沙汰にまでしたストーカーがまだうろついているとは思っていない。監視の目があっても行動に移すほどあのストーカーは浅はかではなかったように思う。だが、ハタから見た推測と彼女自身の思考は必ずしも一致しない。だから警戒してしかるべきではある。ちなみに、とどういった経緯で彼を助っ人にするに至ったのか聞くと、ポアロの記事が掲載された雑誌をめぐって彼と久しぶりに再会し、話が盛り上がった流れで固定客云々の話をしたところ、南さんが「じゃあ今度、さんに会いにポアロ行くよ」と名乗りを上げたらしかった。その決行が今日だったと。嬉々として話すに頭が痛くなったが、苦笑いに留めてそうだったのかと返す。


「そのストーカーの件で安室さんにも改めてお礼を言いたいって言ってましたよ。あ、でもわたしのお得意さんなので!」


きっぱりと釘を刺したはドリンクの準備に取り掛かった。それを横目に、一つ息をつく。君のお得意さんね……正直、それはどうでもよかった。
『その前にわたしが安室さんをすきだって、ちゃんとわかってもらわないとと思って!』盗聴器越しに聞いたため直接返すことはしなかったが、君の好意なんて今さら、十分身にしみている。そこを疑う余地はないよ。だから今のこの状況が、僕への不実から行われたものではないことはわかっている。てっきり助っ人は少年探偵団だと予想していたのだが、と南さんの性格を考えると妙に納得してしまえた。この二人は初対面でやたら打ち解けていたのだ。
だが、それまでだ。が南さんを連れてきたことに深い意味はない。少年探偵団の小学生たちと同じことだ。………。


さん、ちょっと来てくれる?」


その声にまたもや二人して顔を向ける。裏口から彼女を呼んだのはマスターだった。先ほどから事務整理をしに控え室に下がっていたその人に、はい、と返事をしたは注ぎ終わったアイスのカフェラテのグラスを調理台に置き、マスターの元へ駆け寄った。


「運んでおくよ」
「あっ、ありがとうございます」


彼女の背中へ声をかけ、グラスをトレンチへ乗せる。彼女がマスターと共に裏口へ消えたタイミングで、スイングドアを開けフロアへ繰り出した。


「お待たせしました」
「あっ、ありがとうございます!」


窓際のソファ席に座る彼の近くで立ち止まりコースターの上にグラスを置く。慣れた動作をしながら姿勢を正す彼の表情を観察するが、特に気になる節は見当たらなかった。ふと我に返ると自分のしていることがあまりにくだらなく、内心自嘲の笑みを漏らしてしまう。彼は僕を見上げながら、以前依頼した件について、二人のおかげで解決できたと心を尽くした礼を述べた。この人も大概純粋だなと愛想笑いを浮かべる。


「大したことはしてませんよ」
「いえ!俺あの件で安室さんとさんすごく尊敬しました!二人ともかっこいいなって…」
「かっこいい…ですか?」


顎に手を当てる。そう思われるところがあっただろうか。思い返してみても、本当に大したことはしていないのだが。しかものことまでかっこいいと言うとは、リップサービスにしては少々不自然だ。ストーカーと直接会ったことだろうか。わざとらしく首を傾げると南さんはあっと背筋を伸ばしたあと、照れたように肩をすくめた。


さんにも言ったんですけど、安室さんを守りたいって言ってたのが、かっこいいなと思って…」
「……ああ…」
「俺全然さんのこと知らないですけど、きっと安室さんのこと絶対見離さないんだろうなって思えて、」
「……」
「俺もさんに守られたいなと思いました!」


「………」かろうじて笑顔を崩さなかったことは褒めたい。この人はおそらく本当に、の心意気をかっこいいと思っていて、守ってもらえたらいいと思っている。そこには尊敬と、友愛の感情だけがあった。少なくともを困らせるような感情は持っていないと判断できた。

だから僕がとやかく言うことではないと思う。思うが、あまり面白い状況でもなかった。

興奮気味に話す南さんへ、穏やかじゃない胸中のまま「そんな風に思ってもらえたらも光栄でしょうね」と作った笑顔で返す。本音と建前の使い分けは得意だ。


「でも、にもそこまで言ったんですか?」
「えっ、あ、さすがにここまでは!」
「そうですか。でしたら、今後も言わないようお願いします」


そんなことを言われるとは思いもしなかったのだろう、南さんは目を丸くして、「は、はあ…」と零すように返事をした。それから「どうしてですか?」と、至極純粋に疑問に思ったように問うた。きっとこの人はわかっていないのだろう。僕の誰にも晒せない胸の内に、無責任な独占欲が確かに渦巻いていることを。仕方ないと言わんばかりに眉尻を下げ笑みを作る。


「彼女が調子に乗るからですよ」


まあ、知られても困るのだが。





南さんは四十分ほど読書などで時間を潰したあと、ポアロをあとにした。がもっと構いに行くかと思ったが仕事中の自覚があったのか一度メニューの話をしていたくらいで、それ以外は外掃除やテーブル拭きに徹していた。「また来ますね」「ぜひ!」僕とに見送られながら夕焼けを背に振り返った彼は来たときと同様に朗らかな笑顔を浮かべていた。


「さっきさんに聞いたんですけど、安室さんってケーキも作れるんですか?」
「ええ」
「じゃあ、今度食べに来ます!俺甘いのすきなんです」
「えっ?!」
「はい、お待ちしてます」


じゃあ、と手を振って去っていく南さんを見送る。…結局のところ、彼は大丈夫だろう。の友人の一人として認識していれば事足りそうだった。大人げなく恥ずかしいことをしたな、と自省の念に駆られながら踵を返すと、それまで固まっていたがハッと我に返った。


「な、なんか南くん、安室さんのお客さんになりそうじゃないですか…?!」


そういえば元々はそんな話だったな。わなわなと震えるにそんなことないと思うけどと零すと、同情されたと思ったのか彼女は悔しそうに口を尖らせ、僕の背中をグーで叩いた。


「もー!わたしのお得意さん取ったらいくら安室さんでも許しませんよ!」


「……」許さないんだ。それが偶然、最近考えていたことの答えだったものだから虚をつかれた。目を見開き、すぐに何かを返すことができなかった。


「……はは…」


無意識に笑い声が漏れる。ポカポカ叩かれる背中は、まるで痛くなかった。

こんなこととはいえにとっては重要らしい。いくら僕でも許せないことがあるらしい。それは思いの外、僕に安堵をもたらした。果たして僕はに許されたいのか許されたくないのか。はっきりさせたところで何も変わらない。僕の行動も、君との関係も。君が悲しむところは見たくない。だがもうなかったことにはできない。いずれ訪れる破滅の瞬間、君が断罪するのか赦免するのか、どちらにせよ僕は受け入れようと思った。


(……ああ、なるほど)


南さんとのやりとりを思い出す。僕はこれまで、のやる気がどうであれ、に僕は守れないと思っていた。あらゆる使命を背負う自分は、なんかの手には負えないだろうと。
だが、そんなことはないのかもしれない。僕はもしかしたらすでに、という小さな存在に守られているのかもしれない。それは随分と慣れないことだったが、不思議と心地よい感覚だった。にやけそうになる口元を手のひらで隠しながら一人、じわりと胸に広がる陽だまりのような暖かさを享受するのだった。


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