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「…あれ?」


ポアロの扉を開けるも、キッチンカウンターにはマスターの姿しかなかった。非番のわたしが来るとは思ってなかったのだろう、マスターは目を丸くし、それからおかえりと笑顔で迎えてくれた。ただいまですとへこっと肩をすくめ、扉を閉める。お客さんはお一人様が二組、それぞれ壁際と窓際のテーブル席に座って本を読んでいた。わたしが見たときには二人とも手元の文庫本に目を落としていて、随分集中しているように見受けられた。エプロンは従業員控え室なので、私服のわたしがキッチンカウンターまで踏み込むのは躊躇われる。ここも邪魔かもしれないけど、とレジ越しにマスターに話しかけることにした。


「マスター、安室さん…と、梓さんって今日来てないんですか?」


今日のシフトにはわたし以外の三人が入ってたはず。でも今マスターしかいないし、記憶違いだろうか。それとも買い出しに行ってるとかかな?ポアロが載った雑誌を見せようと三限が終わるなり来たのに見せる人がマスターしかいないとは。しかもカバンから雑誌を取り出すと、それなら出版社から一冊届いてるよと言われる始末。えっと思わず大きな声が漏れてしまう。すぐに口を塞ぎ、店内のお客さんへすいませんと小さく謝る。窓際のお客さんとは目が合ったけど、壁際のお客さんはこちらに一切気を向けていないようだった。

さらにマスターから聞いたところによると、安室さんは現在、毛利探偵事務所にいるとのことだった。差し入れかなと予想したもののどうやら違うらしく、なんでもこの雑誌に載った三毛猫の大尉を目当てに飼い主を名乗る人たちが三人も集まり、誰が本当の飼い主か見極めるため、探偵の毛利さんに相談しに行ったのだと。ちなみに梓さんは、例の大尉を連れて来るため一回家に帰ったらしい。「へえー…」思わぬ事案に間抜けた声が漏れる。なんだか、知らない間に楽しそうなことが起こってたようだ。雑誌を見て飼い主が名乗り出てくれるかもと期待していた梓さんも、まさか三人も現れるとは思ってなかっただろう。大尉の飼い主決めかあ…。


「じゃあわたしも毛利さんとこ行って来ます!」
「はい、いってらっしゃい」
「…あ、マスター一人でお店大丈夫ですか?」


偶然とはいえ従業員のわたしが顔を出したのだから、ほんとなら手伝うべきな気がする。一応聞いてみると、マスターは今は落ち着いてるから大丈夫だよと即答してくれたので、わたしは安心してお店を出たのだった。
……手伝ってほしいって言われたら困ってしまったかも。いい人ぶってしまったよ。マスター、許してください。助手として安室さんの関わる案件には立ち会いたいんです。というか依頼じゃないとはいえ、安室さんも連絡してくれればいいのに!

ポアロの脇の階段をタンタンと登る。二階が毛利探偵事務所だ。今どんな感じかな、もう飼い主決まっちゃったかな?それにしてもまさか、三人も飼い主が名乗り出てくるなんて。三人も大尉を……。


「…ん?」


階段半ばでピタリと立ち止まる。…てことは、わたし、固定客数で大尉にも負けたってことか…?!驚愕の事実にガクッと膝をついてしまう。階段の角に当たってちょっと痛い。大尉すでに三人かあー…ポアロ関係者ツワモノ揃いだ…。

とにかく、気を取り直して探偵事務所に行こう。二階の踊り場へ到着し、磨りガラス付きの鉄製ドアの前に立つ。話し声は聞こえる。まだいるみたいだ。コンコンとノックする。


「あ!大ちゃん来た!」


歩美ちゃんの声だ。もしかしたら少年探偵団もいるのかもと思うと同時に、大ちゃん?と疑問に思う。その答えを導き出す前にドアが開く。


「たいー……あれ?」
お姉さん?」


扉を開けた光彦くんと、猫を抱っこしている歩美ちゃん、近くで目を丸くしてる元太くんが視界に入る。わたしもポカンと呆気にとられながら、「や、やっほー…」かろうじて手を振った。


…」


その声にパッと顔を上げるとイスに座っている毛利さんのそばに立つ安室さんと目が合った。ここでようやく、毛利探偵事務所にいる人の多さに気付く。安室さん、毛利さん、蘭ちゃん、コナンくん率いる少年探偵団(哀ちゃんの姿は見えないようだ)。それから、見かけない顔ぶれが三人。眼鏡をかけたおばあさんと、ハットを被った若いお兄さん、スーツを着た見るからにサラリーマンのおじさんだ。言わずとも、この人たちが大尉の飼い主候補なんだろう。


「なんだ、大尉じゃねーのかよー」
「え?」
「大ちゃんが来たのかと思ったー」


なんだ?!なんかとてもがっかりされてるぞ…?!「た、大尉…?」状況がわからず中腰になって元太くんたちに聞いてみると、苦笑いのコナンくんに今は梓さんが連れて来る大尉待ちなことを教えてもらった。なるほど、大尉だと思ったらわたしだったからみんながっかりしてるのか。わかれば納得で、しかしちょっと虚しい気分になる。くそー、わたしの登場を喜んでくれる人はいないのか…!

そそくさと安室さんのそばへ移動すると苦笑いの彼に今日はどうしたんだいと聞かれる。それには下でマスターに話したことと同じことを説明するも、「雑誌なら出版社から一冊届いてるよ」とこれまた同じことを返されてしまう。現物は今、毛利さんの事務机に該当ページを開いた状態で置いてあった。


「マスターからも聞きました……もうそれはいいんです」
「そう」
「で、大尉の飼い主は決まったんですか?」
「決める決めないの話じゃないよ。彼らは三人とも、自分があの猫の飼い主だって言い張ってるんだから」


「誰が嘘をついていて、誰が本当のことを言っているのか。それを判断するのが今回の依頼内容だ」腕を組み、ちらりと視線が逸れる。それを追って振り返ると、イスに座り手を組んで考え込んでいる毛利さんがいた。「…依頼?」無意識にポツリと呟くと、安室さんは形としては僕が毛利先生に飼い主捜しの依頼をしたことになってるんだと補足してくれた。へえ…?実際に見てないので、どういう流れでそういうことになるのか皆目見当もつかなかった。それに安室さんの口ぶりと毛利さんの様子から、未だ飼い主の真贋がついてないんだろうこともうかがえる。飼い主って簡単に分かるものじゃないんだ。飼い猫探しとかよく聞くけど、その猫が本当に飼い主の猫だって断定するのって意外と難しいのかもしれない。
そうこうしてるうちに階段を駆け上がってくる足音が聞こえ、事務所のドアがガチャリと開いた。


「お待たせしました!」


梓さんだ!「大ちゃん!」歩美ちゃんたちの嬉しそうな声があがる。なるほど、みんなこれを待ってたんだ。さっきのがっかりされた雰囲気を思い出しちょっと複雑な気分になりながら、梓さんの腕から飛び降りた大尉がまっすぐ若い男の人に飛びつくのを見ていた。


「あ、やっぱ飼い主だって自分でわかるんですね」
「……」
「安室さん?」


隣を見上げると、安室さんは不敵な笑みを浮かべて三人の飼い主候補を見ていた。それにはある種の確信が見え、思わず口を閉じてしまう。…安室さん、飼い主が誰なのかわかってそうだ。


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