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二限の教授の講義はいつも退屈だった。板書さえしっかり取っておけば試験も怖くない科目なので、寝ないようにだけ気を付けながら九十分間をやり過ごすのがいつものことだった。
しかし今日のわたしは一味違う。大教室の机に肘をつき、顔の前で指を組む。それで渋面を隠しながら、黒板を睨め付けているのだ。何も教授の話が腹立たしいほどつまらないわけじゃない。お腹が痛いわけでも、機嫌がとびきり悪いわけでもない。単純に、ひどく焦っているのだ。今日の通学路での出来事を思い出しては頭を抱えたくなるけれど目立つのでぐっと堪える。でも、ああ、なんでよりによって…!!

今日は例のグルメ雑誌の発売日だ。時間に十分余裕を持って家を出、途中で本屋さんに寄るつもりだった。いや、実際に寄ったのだ。でも、開いてなかった。急な改装作業で三日間の休業。げえーっ!と内心叫びながら、負けじと乗り換えの駅にある本屋さんを覗いた。しかしこちらは入荷が遅れているらしくまだ店頭に並んでいなかった。その駅にはもう一軒本屋があったけれど、小さいお店だったのでそもそもグルメ雑誌のコーナーすらなかった。頼みの綱だと言わんばかりにキャンパス内の書店に駆け込むも、今度は人気で入荷分は売り切れたとのことだった。
組んだ指で顔の下半分を隠しながらぎゅっと目を瞑る。なんてことだ!全滅だよ!四つ回って全部ダメだったよ!そんなバカなと言いたい。でも少なくとも、今日は通学路にあるお店じゃ買えないのだ。定期券外のターミナル駅に行くか、大学を出て本屋さんを探し歩いてくかのどっちかだ。どのみち三限が終わったあとに行くしかないだろう。今日はバイトもないけど、本当はお昼休みに優雅に雑誌を読みたかったんだけどなあ…。野望が潰え、悲しい気持ちになる。


(ん?)


ふと、カバンの中の携帯が振動したことに気付く。すぐ止まったから、着信じゃなくてメッセージだ。講義中だからあけっぴろげに出すことはさすがに躊躇われたので、こっそり取り出して内容を確認する。


[久しぶりさん!今日発売の雑誌にさんと安室さんのバイト先載ってたよ!]


思わず声が出てしまうところだった。口を押さえ、すんでのところで止める。メッセージのあとには該当ページを写した写真まで載せてくれている。ゲラのときに見たのと同じレイアウトだ。間違いない!わたしはすぐさま机の下で返信を打った。





食堂の四人テーブルで待つ彼を見つけ駆け寄ると、隣のイスにリュックを置いて携帯をいじっていたその人はパッと顔を上げ、笑顔を見せた。


「久しぶり、さん」
「久しぶり南くんー!」


変わらない南くんの姿にわたしもへにゃっと笑う。そう、さっきメッセージをくれたのは南くんだったのだ。ストーカー問題を解決して以来ご無沙汰だったので双方のあいさつ通り久しぶりだ。突然メッセージをくれたことには驚いたけれど、それより内容の方が数倍驚いたのでいざ目の前にしても全然普通だ。南くんの向かいに着席し、さっきはありがとうねーとお礼を言う。彼も柔和な笑みを浮かべながら、ううん、と首を振り、黒の薄いリュックサックから白い紙袋を取り出した。


「こんなのお安い御用だよ。はい、雑誌」
「あーありがとう…!本当にありがとう!」


南くんがテーブルに置いたそれはわたしが探し求めていたグルメ雑誌だった。わなわなと震えながら受け取り、紙袋から取り出す。ツルツルの表紙に指を這わせ、それから一ページ開くと紙のいい匂いが香ってきた。パラパラめくり、真ん中あたりのページで止まる。見開きの左側まるまる一ページに、ポアロの外装の写真と記事が載っていた。本当に雑誌に載ってる…!なんだか言葉にならない感動の波に襲われ、堪えるように雑誌を抱き締める。


「うー…ポアロ〜…!」
「知ってるとこが載ってると嬉しいよね」
「うん…!南くん本当にありがとう…!」
「全然!」


人当たりのいい笑顔で返す南くんには、先ほどメッセージをもらってすぐ「わたしの分も買って!」と送った。それに二つ返事で了承してくれた彼の心の広さよ。優雅とはいかなかったけれど昼休みに雑誌を読むことができたのは南くんのおかげだ。わたしもう、南くんに足向けて寝れないよ。
なんでも南くんのお姉さん、編集社のライターさんらしく、自分の記事を弟の南くんに見せて感想を求めることが多いのだそうだ。今回の雑誌も、巻頭特集を担当したのがお姉さんだったので彼は発売前にすでに内容を一通り読んでいたらしい。ポアロの記事が載ってるのを見て、前にわたしと喫茶店でちらっと話したことを覚えていた彼は、発売日まで言うのをうずうずしながら待っていたんだそうだ。ちなみにお姉さんが組んだ特集はターゲットを大学生くらいの女性に絞った内容だったらしく、発売前からちょっと話題になってたおかげで大学の書店ではすでに売り切れだったのだ。
つまり、南くんは買う前から雑誌を持っていたので、わたしのためにわざわざ通学途中で本屋さんに寄ってくれたということになる。そのことに気付いたわたしは謝罪と感謝の言葉を述べたけれど、南くんはやっぱりちっとも負担じゃないというかのように首を振るだけだった。


「でもいきなり「三限前に大学来れる?」って聞かれたのはびっくりしたよ。俺の時間割覚えてたんだね」
「うん!ていうか南くんの時間割覚えやすかったから!すぐ思い出せたよ!」


ストーカーのフリをしてた頃、南くんの行動スケジュールを把握する一環で当然ながら時間割も入手していた。科目数はわたしとほとんど同じだけど、組み方の妙で変な時間割だなあと思ったのを覚えてる。さっきすぐに思い出せたのはそのおかげでもあるし、火事場の馬鹿力というやつでもあると思う。わたしの記憶力もまだまだ捨てたもんじゃないなあ!思って、すぐにハッとする。


「ご、ごめん嫌なこと思い出させた…?」
「え?なにが?」
「ほらあの…ストーカーの…」
「ああ、あの子のことなら大丈夫だよ」


あっけらかんと手を振ってみせた南くんに無理をしてる様子はなく、ほっと胸をなでおろす。「ならよかった…」南くん曰く、あれからあの子とは会ってないし、尾けられてる感じもしないから完全に縁は切れただろうとのことだった。とはいっても南くん、写真を送りつけられるみたいな実害がないと気付かなそうだから、一概に信用はできないのだけど。それに南くんにとってはストーカータイプの人種というくくりではわたしも同じようなものなはずなので、そもそもわたしといてあんまりいい気にならないんじゃ…と今さらながら不安になる。


「それにさんはかっこいいから、全然大丈夫だよ」
「へ?」


思わず彼を見上げる。目の前に座る南くんは、やっぱりにこにこと楽しげな笑顔を浮かべていた。


さん、いつか安室さんがストーカーされたとき守りたいって言ってたじゃん。あれ俺、かっこよくてすきなんだー」


思わぬ言葉に瞠目する。南くんのストーカー犯を特定するために、わたしがストーカーのフリをしたいと言ったときだ。同じようなことが安室さんの身に起こったとき、わたしが守りたいって言った。それをまさか、そんな風に思っててくれたなんて。「え、えへ…へへ……ありがとう…」素直に嬉しくて、肩をすくめて頭を掻く。かっこいいって、嬉しいなあ。

安室さんもそう思っててくれたらもっと嬉しいなあ。大人な彼を思い出して、淡い期待を抱く。常日頃わたしは安室さんを頼りにしてるけど、安室さんもわたしを頼ってほしいと思うのだ。


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