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 この件が済んだら離れよう。


 用意したボストンバッグに服を詰め込み、最後に黒いキャップを入れ口を閉じる。部屋の時計に目を向けると丁度八時半を指していた。約束の時間には余裕を持って着くだろう。普段外に出しているものとは違うノートパソコンをシャットダウンし、鍵付きの戸棚にしまう。
 優先させるべき僕の任務だ。頭の中にはこれから行うことに関する自分の動き方、それに対する相手の様々な反応が何通りもシミュレートされている。今日から本格的に行動に移す、そのための下準備は整えてきた。そして、必ず上手く行くという確信があった。

 ふと立ち止まり、今日の監視を任せた彼女の身を案じる。もっとも、何の変哲もない単なるサラリーマンの動向監視だ。特に心配する必要性は感じられない。この上ない不運でこそあれ、間抜けでも頭が悪いわけでもない彼女は、自主的に提出してきた履歴書に記された通り調べ物が得意で、相手に気付かれず監視したり尾行したりすることにも力を発揮していた。あくまで一般人に毛が生えた程度ではあるが、それなりに助かっているのは本人に伝えた通りだった。

 けれど、そろそろ潮時だろう。これから僕はこちらのことで忙しくなる。安室透として続けていた探偵の仕事を減らすだけでなく、いくつもの危ない橋を渡ることになるのだ。にもかかわらずこのまま彼女をそばに置いておいたら、彼女がどんな目に遭うか容易に想像できる。僕にとっての不利益だっていくらでも考えつく。彼女に正体がばれる。彼女の口から情報が漏れる。彼女が組織に目をつけられる。彼女が、僕の弱点になるのだ。
 だから、早く離れないといけない。そうでなければ……。

 突然、上着の内ポケットで携帯が振動した。ハッと我に返り、無意識に立ち尽くしていたことに気がつく。情けなさに溜め息が漏れた。取り出して見てみると、受信したのは目下悩みの種であるからのメッセージだった。ロックを解除し内容を確認する。


[男がいっかいかえったアパートからまた出てきました。全身黒でいかにもです。びこうします]


 眉をひそめる。簡素なメールなのは不思議なことではない。問題は内容だ。男が今までになかった動きを見せたらしい。監視対象の男は独身だし、着替えてコンビニへ買い物に出かけただけの可能性もある。だが、この、文面から伝わるの焦り様は何だ。嫌な予感が駆け巡りすぐさま電話をかけるが応答はない。クソ、どうしたんだ。

 そこで思い出す。のカバンに、三ヶ月前に仕掛けたままの発信器が入っていることを。その機器は携帯から位置情報が取得できる物だ。白と断定してから一度も確認していないが、大学の行き帰りを装って近付くと言っていたからおそらく今日もそれを使っているはず。
 アクセスすると思った通り発信器の位置は杯戸町の街中を示していた。丁度監視対象の男の家付近だ。しかし、この移動速度は歩きではない。タクシーか?方向的に米花町に向かっているようにも見えるが、まさか帰宅にタクシーを使っているわけではあるまい。しかも電話に出られない状況……携帯を落としたにせよ、拾う暇もないのだ。何かあったのは間違いない。

 とにかくこれを追おう。支度したボストンバッグは床に放置し、車のキーを取る。すると、携帯が着信を知らせた。か、との期待は外れ、そこには未登録の番号が並んでいた。依頼人のものだ。受話ボタンを押しながら最低限の荷物だけを持ちドアへ向かう。


「はい」
『お世話さまです、探偵さん。調査経過のことな…ですが、ど…ですか?』


 足を止める。相手のノイズがひどい。電波が悪いのか?それともまさか――。


「……ええ、特に変わった動きはありませんよ。会議までのあと一週間ほど様子は見るつもりですが」
『そうで…か。な、よかっ…』
「それにしても電波が悪いみたいですね……今どちらに?」
『自宅で…、確かに聞き取りづら…すよね』
「そうですか…」


 自宅でこの通信障害は普通ありえない。盗聴されている。踵を返し、リビングの隣の部屋を開ける。肩と頬で携帯を固定しながらクローゼットにしまってある受信機を取り出し、故障の類がないことを確認する。「そうだ、今から調査報告の途中経過をメールで送りますね」「え?ええ、お願いします」困惑した様子の相手の応答を聞き、ではと短く挨拶をして通話を切る。すぐに作成画面を立ち上げ、絶対に声に出さないことを強調した上で、家に盗聴器が仕掛けられていること、今から自分が伺うからそれまで誰かが訪ねてきても絶対に出ないこと、その他必要になるかもしれない頼み事を手早く打ち、送信した。

 画面は再び発信器の位置を示す地図を浮かび上がらせる。まだ杯戸町から出られていない。しかし、確実に米花町に近付いていた。
 依頼人の家は米花町だ。そして全身黒服の男。盗聴器。音信不通の彼女。これらがすべて偶然重なったとは思えなかった。今ならここからの方が早く着く。念のため自宅に盗聴器が仕掛けられていないか確かめてみたが、その気配はなかった。

 家を出、にもう一度かけてみるがやはり応答はない。エレベーターを降りながら、今度は着信履歴の上から四番目の番号を呼び出す。五回のコール音ののち、『はい?』相手の声が聞こえる。


「すみません、ベルモット。急用ができたので今日はなしにしてください。赤井の変装はまた後日お願いします」


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