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「それじゃあ、お先失礼しますね」


そう言った梓さんがお店を出ていくのを安室さんと一緒に見送る。「はい!大尉のことよろしくお願いしますー」彼女の両腕に抱きかかえられた三毛猫の大尉に手を振るも、当然ながら彼が反応してくれることはなかった。

今日の夕方、いつもの時間にポアロへ餌をもらいにやってきた大尉を店頭で迎えた梓さんが慌てて戻ってきた。なんと、大尉が傷だらけだというのだ。お客さんもほとんどいなかったのでわたしと安室さんが救急セットを持って駆けつけると、梓さんの言った通りボロボロの大尉がそこにはいた。三人でなんとか汚れを落としたり怪我の様子を見ながら推理したところ、おそらく近所の猫と喧嘩でもしたのだろうとの結論に至った。大尉は意外とやんちゃな猫らしい。赤い首輪を眺めながら、飼い猫時代もいろんなところで遊んでいたに違いないと一人思った。
自分の身体をペロペロ舐める大尉をしゃがんで見つめる。…そういえばすっかり慣れてしまったけど、大尉って飼い猫だったんだよなあ。でも捨てられたとあんまり思えないのはなんでだろう。それに、だとしたら今ごろ飼い主さんが探してるんじゃないだろうか。わたしが一人そんなことを考えている間、一方の梓さんは怪我の面倒を見ることも兼ね、彼を自分の家で飼うことを決心していたらしかった。

心なしか嬉しそうな彼女の横顔を窓ガラス越しにポアロの店内から見送る。前の歩道を通り過ぎ姿が見えなくなると、わたしは身体を近くにいた安室さんへ向けた。平日の夕方というのは一番お客さんの入りが少ないので、今も店内には一組のカップルしかいなかった。中央のテーブル席に座る彼らを一瞥し、キッチンカウンターへ戻る安室さんを追いかける。


「梓さん嬉しそうでしたねー」
「あの猫のこと一番気に入ってたの、彼女だからね」
「ですねえ。でも大尉って誰かの猫だったんですよね。勝手に飼っていいのかなあ」


さっき考えていたことを何となしに口にすると、安室さんはああそれなら、と言いながら、調理台で乾かし途中だった食器を手に取って拭き始めた。


「今度出版される雑誌に大尉の写真が載ってるから、飼い主が名乗り出てくれるかもって梓さんが言ってたよ」
「…ああ、あれですか!」


思い出した。そういえばもうすぐで発売だ!実はここポアロ、二ヶ月くらい前に取材を受けたのだ。グルメ雑誌の記事として実際に記者さんがここに来て、マスターにインタビューをしたり外装や店内の写真を撮っていったらしい。残念ながらわたしは大学の講義が入っていたのと、安室さんは体調が悪くて休みをもらったから、実際に取材を受けたのはマスターと梓さんだけだった。後日ゲラを見せてもらい、紙面一ページまるまる載っているポアロの記事を大興奮で読んだのを覚えてる。実際に出版されるのを心待ちにしてたけど、そうか、もう来週なのかあ。


「楽しみですねー。わたし絶対発売日に買いますよ!」
「もう記事は読んだだろう。あれから特に修正は入ってないはずだし」
「それとこれとはまた別ですよー」


安室さんの言った通りゲラの段階で隅々まで読んで堪能してはいるのだけど、現物をこの手にするのとは興奮がまた別ものだ。発売日は大学が二限からあるから、通学途中の駅ナカの本屋さんで買っていこうではないか。ふふふと一人ほくそ笑んでいると、安室さんには「手が空いてるならテーブル拭いて来て」と注意されてしまった。いかん、仕事中だった。反省したわたしは、はいっと返事をし台拭きを手に客席へ繰り出すのであった。





「ありがとうございましたー」


ごちそうさまでした、とカップルの二人がお店を出ていく。夜のピークまでまだ時間があることを壁掛け時計で確認し、ふうと息をつく。後ろを振り向くと、安室さんは調理台を前に夜に向けての仕込みをしているところだった。手持ち無沙汰だし、埃が舞わない掃除をしようかなあ。とはいっても誰も見てる人がいないと気が抜けてしまうのも事実だった。レジから離れ、ひょこひょこと安室さんの隣へ並ぶ。話題はもっぱらグルメ雑誌のことだ。


「安室さんあんまり取材に興味なさそうでしたけど、憧れとかないんですか?」
「取材に?特にないなあ」
「そうなんですか…」
「そんなに取材受けたかったのかい?」
「受けてみたかったです!キリッと受け答えしてみたかったです…!」
「はは。想像つかないな」
「サラッと失礼なこと言いますね?!」


あははと笑いながら、手に持った包丁は規則正しいリズムで食材を切っていく。あと一時間もしないうちに店内にはおいしいカレーの匂いが漂うと思うと幸せな気持ちになる。安室さんの失言など簡単に流せてしまうほどだ。


「確かにそういうの、安室さんの方が上手そうですもんね」
「どうだろう。経験ないからなあ」


経験ないんだ。至極当然のように思ってしまった。つくづく安室さんの経歴は謎だ。暴きたいと思って何ヶ月も経ってるけれど、成果はまるで得られていない。最近は目の前にいる安室さんで十分満足しちゃってるから、過去への渇望というのがあんまりないのも起因していると思う。怠慢だなあ、人間をやってる以上、もっと貪欲でいたいものだ。内心気持ちを新たにしながらも「そうなんですかあ」と間延びした声で返すと、安室さんは切り終わった人参をボウルに移しながらわたしをちらっと見た。目が合って思わず照れてしまう。


「…あ、そういえば大尉だけじゃなくて、梓さんも思いっきり載ってましたよね!」
「ああ、抱きかかえてたね」
「梓さん可愛かったです〜!美人店員さんとか書かれてて!本当のことですけど、すごいことですよねー!」
「ああ」
「これは梓さん目当てのお客さん来てしまうのではないでしょうか…!」


想像して楽しくなる。記事に載る写真は大尉をだっこしてる笑顔の梓さんで、本物と遜色ないほど綺麗に写っている。梓さんはほんとに美人だし、人柄もとても良いので彼女を目当てにお客さんが増えてもおかしくないと思う。うんうんと頷くと、安室さんは動かしていた包丁を止めた。さっきから話半分くらいで聞いてた気がするけど、今はわたしへ顔を上げて、目を瞬かせながら小首を傾げていた。


「梓さん目当てのお客さんならもういるだろう」
「えっ?」
「僕らなんかよりずっと長くここに勤めてるんだし、そりゃあいるよ。今朝もいたじゃないか」
「……はっ!」


言われてみればそうだ。梓さんは安室さんが入る前は唯一のウエイターとして看板娘を担ってたらしいし、ポアロ勤めも我々なんか足元に及ばないほど長い。もともとポアロは常連のお客さんが多いお店だって聞いてる。顔なじみのお客さんはだいたい梓さんのことを知ってて、世間話してるのもよく見かける。今朝もご高齢のお婆ちゃんや、出勤前のサラリーマンが梓さんと話しているのを見た。
そっか……そっか!いやあ、梓さんすでに人気者だった!何を勘違いしてたんだか。わたし、最近見かけるようになった安室さん目当ての若い女の人たちにばっか目が行って他のこと気付けてなかった。よく考えたらマスターだって、淹れるコーヒーが格別に美味いってお客さんから評判で、それを飲むために足繁く通う人も多いのだ。はあーっと思わず感嘆の息をついてしまう。


「よくよく考えるとみんなすごいですね…?!」
「はは。そうだね」
「えー…わたしも固定客欲しいなー!」
「そういうお店じゃないから」


安室さんのツッコミは意に介さず、憧れに目を輝かせるわたし。わたしも頑張って働いてたら、わたしに会いたくて通ってくれるお客さんができるかもしれない。そう思うと俄然やる気が湧いてくるではないか。両手で拳を作る。


「よーし、これからも頑張ります!」
「ハハ……ほどほどにね」


苦笑いの安室さんにはいっと元気よく返事をしたわたしは、頑張るを有言実行すべく意気揚々とトイレ掃除に向かうのだった。


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