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「変装とはいえ、あの子の前で夫婦役を演じたのは胸が痛んだかしら?」


車を降りたベルモットが別れ際放った台詞だった。弁崎素江という架空の女性の衣装は彼女のイメージとは程遠く、パステルカラーの妊婦服とハリウッド女優のはっきりした目鼻立ちはアンバランスだと思わせた。
ここでいいと指示され停めた通りはいくつものホテルが立ち並んでいた。今の彼女が根城にしているホテルがどこかは知らないが、詮索すべきは彼女ではない。頭の中では花見会場で盗聴して得た情報が、推論と共に着々と組み合わされて行っていた。
助手席のサイドドアを開けたままこちらを覗き不敵に笑うベルモットを運転席から見上げる。「あの子」が誰なのか、心が痛む理由が何なのか、「僕」は察しの悪い人間じゃないのですぐにわかる。とぼけるなんて選択肢はない。応じるように、ふっと鼻で笑う。


「からかわないでくださいよ」


それだけを返した僕を見、ベルモットは作った笑みをそのままに「そう」とだけ言い、サイドドアを閉めた。彼女が車を離れ、路地を曲がったのを確認してから着ていたジャケットとセーターを脱ぐ。下には薄手のロングTシャツを着ていた。服は変装のフェイスマスクと合わせて後部座席に隠し、元々着てきた上着を羽織る。スラックスを履き替えるのは帰ってからでいいだろう。少なくとも弁崎桐平ではなくなった自分で、車を発進させる。どこかに寄る予定があるわけではなく、自宅に帰るつもりだった。
ベルモットがどう判断したのかはわからない。が、ベルツリー急行以来目をつけられている認識はあった。僕がじゃない。がだ。ベルモットにはベルツリー急行で説明した以上のことは話してなく、その後彼女がに接触した気配もない。こちらが秘密を握っている以上、下手な真似はしてこないと踏んでいるが、油断はできない。


「……」


…心が痛んだと思ったのか?別人に変装し、彼女の恋心を知っていながら他の女性と夫婦役を演じる。そのことが僕の罪悪感を煽ると。ふっと、今度は無意識に笑いが漏れた。自嘲だ。まさか、そんなの今さらだ。

赤信号で停車している間にポケットから携帯を取り出す。からのメッセージはあれ以来届いていなかった。数時間遅れの返信をすべくメッセージツールを立ち上げるが、「……」すぐに画面の明かりを消した。信号が青に代わり、アクセルを踏む。

「お幸せに!」むしろあの台詞でに変装がバレてないことに確信が持てたくらいだ。屈託なく笑う彼女は目の前の弁崎桐平と弁崎素江が本当の夫婦であると信じていた。があの場に現れたことには内心驚いたが、弁崎桐平が僕だということに気付いた様子は微塵もなかった。同じく事件に巻き込まれたときには驚きより呆れの方が勝ったが、まさかそれをそのまま口に出すわけにはいかなかった。まあ、今回ばかりは僕も同じ立場だったので偉そうなことは言えなかったのもあるが。そう、だから、ベルモットの言ったことはお門違いだ。

そんなことより、の期待に応えなかったことの方が余程。

[神社のお花見会場で殺人事件が起こりました。被害者は黒兵衛っていうスリの常習犯らしいです。容疑者はそのスリの被害者かもしれません。少年探偵団と、今日会ったジョディ先生っていうFBIの捜査官さんと一緒にいます]から送られてきたメッセージを思い起こす。ジョディ・スターリング捜査官の袖口に仕込んだ盗聴器で事件のことは知っていた。容疑者になってからが不安に駆られている様子もそばで見ていた。携帯を気にしてるのが僕からの返信を待っているからだというのもわかっていた。だが、僕は彼女を助けることをしなかった。それより優先しなくてはならないことがあったからだ。

ハンドルを握る手に力を入れる。を放っておく、その判断に迷いはなかった。間違ったとも思っていない。ベルモットが近くに控えているところでに関わる目立つ行動はするべきでなかったし、FBIと江戸川コナンのやりとりを聞き漏らすわけにはいかなかった。同じ状況がまたあったとしても、僕は同じことをするだろう。


僕の中での優先順位はそれほど高くない。


だが、それを言ってしまうことはできずにいた。





マンションの駐車場に車を停め、エントランスへ向かう。携帯の画面をつけるとへ送るはずだったメッセージの作成画面が立ち上がったままなことに気付く。溜め息をつきそうになるのを堪え、キーパッドをフリックしていく。
「僕の中で君の優先順位はそれほど高くない」と言う代わりに謝罪の言葉を述べる。「もう近づかないでくれ」と言う代わりに架空の用事で理由を綴る。頭のおかしいことをしている自覚はあった。


「できることなら君の期待に応えたかった」。言えない。


人の気配に顔を上げる。エントランスの前に、ぼんやり佇む人影があった。それが誰なのかすぐに理解する。動かしていた指を止める。花見会場でも見ていたはずの彼女は今、エントランスの強い電球色の明かりによって暗闇に溶けてしまいそうだった。

と目が合う。


「…おかえりなさい!」


ああ、と返す。彼女はまるで、たった今不安が振り払われたかのように表情を晴れやかにしたのだ。その笑顔を見て、つられるように笑みを浮かべる。

こんなことでよかった。こんなことを続けたいと思ってしまう。いつもじゃなくていいから、君のそばで束の間の平穏を感じたかった。


君のために生きられない僕のそばに君がいてほしいと思う。


僕の口から出てくる言葉は君を喜ばせてはいけない。わかっていても、いくつもの言い訳を並べながら僕は、を自分のわがままに付き合わせるのだ。


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