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段野さんの犯行動機は簡単に言ってしまうなら復讐だった。去年黒兵衛にスられた財布に入っていた車のキーがないせいで、喘息だった息子さんが数時間車内に閉じ込められ、病院に行くのが遅れて結局亡くなってしまった。黒兵衛の遺体のそばに置いてあった黒い五円玉は、そのとき入れられた、息子さんの命を奪った五円玉だったという。


「しかし何でプリクラを?あれが貼ってなければあなたの財布だとわからなかったかもしれないのに…」


あとで聞いた話では、茶色の長財布には息子さんと写る段野さんのプリクラが貼ってあったそうだ。それが彼女の持ち物だと特定する決め手になったのだと。問うた高木刑事へ、段野さんは後悔なんてないみたいに強い眼差しで言い放った。


「見せつけてやりたかったのよ、あのスリに…あなたが盗み取ったのはお金だけじゃない…一人の小さな男の子の命だってね…」


その言葉にわたし個人として思うことはあったけれど、もちろんわたしは部外者で、彼女の悲しみも息子さんの苦しみも被害者の痛みもわからないから、誰かになったつもりでとやかく言うことは憚られた。同情が許されないと残るのは「人を殺してはいけない」なんて至極当たり前のことくらいで、そんなことここにいるみんながわかっているから何も言えなかった。
そんな虚しさをわたしが一人消化している間にも段野さんは警察に連行され、この場は収束へと向かっていった。


「では、持ち物をお返しします」
「…あ、はい…」


警察官に渡されたカバンを受け取る。無意識に携帯を探して画面をつけたけれど、新着のメッセージは誰からもなかった。はあ、と今日一番重い溜め息が出て驚く。うわあ、落ち込んでるなあ。


さん?」
「…あっ、はい」
「大丈夫ですか?やけに元気なさそうですが…」


もしかして私の風邪うつってしまいましたか?と心配そうに声をかけてくれる弁崎さんに、違いますよ!と手を振って否定する。そんなあからさまだったか、反省、反省。頭を掻きながら苦笑いすると、「あっ」と思い出した。急いでカバンのポケットをまさぐる。


「はい!のど飴です!」
「…ああ、大丈夫ですよ」
「遠慮ならさずー!」


無理やり押し付けるように差し出すと弁崎さんは苦笑いで渋々受け取ってくれた。強がりみたいに言った言葉はだんだん本当になる。人と話してると自然と元気になるのだ。もしかしたら空元気というやつなのかもしれないけど。


「でもさっきから携帯を気にしていませんか?」
「あ…ちょっと返信待ちで…でもわたし無事なので、大丈夫です!」


ぐっと拳を作る。嘘じゃない。安室さんからの返信はずっと待ってたけど、安室さんにもプライベートがあるし、四六時中携帯を見てるわけじゃない。半日くらい連絡が来なくたって安室さんなら心配ないし、結局わたしも何ともなかったので大丈夫だ。そうだ、事件の報告をしないと。でも連続になっちゃうから、安室さんから返事来てからにしようかなあ…。

それにしても、と上目で盗み見る。なんだか弁崎さんって話しやすい人だなあ。財布の持ち主探しで再会してからというものの、一応顔見知りで同じ容疑者になってしまったおかげでちょいちょい話していたのだけど、間の取り方がしっくりくるというか落ち着くというか、この人と話すことにすぐ慣れたのだ。もともと波長が合うのだろうか。こういうこともあるんだなあと一人感慨深く思っていると、いつの間にか近くにいたコナンくんが弁崎さんを見上げていた。


「ねえ、おじさんってもしかして目が悪いの?」


突拍子もない質問に弁崎さんだけでなくわたしも目を丸くする。弁崎さんの目が悪い?全然そんな感じしないけど、コナンくんはなんでそう思ったんだろう。


「だってスリのおばさん、おじさんの顔見てビックリしてたよ?あれってちょっと前に財布をスッた相手がおじさんだったからだと思うんだけど…」


「なんでおじさん、あのとき何も言わなかったの?おばさんと会うの二回目のはずなのに」わたしがみんなと会う前のことかな?どうやら弁崎さんはスられたあとも黒兵衛と遭遇してたらしい。それに気付かなかったなんて、よほど角度が悪くて顔が見えなかったか、目が悪いかくらいしか思いつかないだろう。なるほど、と一人納得する。弁崎さんも特に言い訳することなく目が悪いことを告白したので、もしかしたら今見えてる景色もぼんやりしてるのかもしれない。


「目が悪いなら眼鏡かけねーと桜見えねーぞ!」
「おじさんも一人でお花見に来たの?」
「実はお守りを買いに…」
「何のお守りですか?」


やってきた少年探偵団に困り顔で応対する弁崎さん。もしかしたら子どもがあんまり得意じゃないのかもしれない。察したわたしは助けに入ろうと口を開く。と、そばで足音が。


「わたしのお守りでしょ?」


振り返ると、縁にレースがあしらわれた日傘を差す女の人がいた。笑いかける彼女に振り返った弁崎さんが口に出した名前によると、素江さんという方らしかった。奥さんかな?と考えるより先に彼女の体型に目が行く。「この子の為のね…」穏やかな声で優しく撫でる彼女のお腹は大きく膨らんでいた。それが何を意味するのか、すぐにピンときたわたしたちはわあっと表情を明るくする。


「そっか、赤ちゃん!」
「安産祈願のお守りですね!」


「わーすごい、楽しみですね!」大きなお腹と素江さんの顔を交互に見ながら言う。もう随分大きい。妊婦さんを間近で見たのは初めてだから確かなことは言えないけど、もうすぐ生まれてきそうじゃないか?わくわくして、男の子か女の子か聞こうと顔を上げる。が、「家でじっとしてろって言っただろ?」「あなたが全然帰ってこないから心配で見に来たんじゃない!」なぜか言い合いが始まってしまい口を噤んだ。…でも、痴話喧嘩ってやつだなあ。口を噤んだのはにやにやしてしまうのを隠すためである。


「じゃああなたはもしかして、銀行強盗の事件のときに私にガムテを貼った…」
「あら、あのときの外国人さん?」


えっと目を丸くする。銀行強盗でジョディ先生にガムテープを貼ったの、素江さんだったの?すごい偶然だ。わたしもあのときいたんですよと言おうとすると、「うっ…」突然素江さんが口を押さえて倒れてしまう。「大丈夫ですか?!」ちょうど目の前にいたジョディ先生が、さすがFBI捜査官といったところかしっかり受け止めてくれたので怪我などはなかったようだ。吐き気が治まらないのだろう、素江さんは倒れ込んだジョディ先生から離れたあとも気分が悪そうに口を押さえたままだった。


「すみません、妻の体調のこともあるのでもう帰っていいですよね?」
「ええ。スリの一件もあるので、後日改めて事情を伺いますが…」


素江さんの肩を抱くように支える弁崎さんは、目暮警部の了解を得たあと神社の出口へと足を進めた。その姿を目で見送ろうとして、「あっ」地面に日傘が落ちているのに気が付いた。さっき素江さんが倒れ込んだとき落としてしまったのだろう。わたしはそれを拾いあげ、弁崎さんへ渡す。


「これ、」
「ああ、ありがとうございます」
「いえ、素江さんお大事に…」
「ええ…ありがとうね…」


苦しそうに、かろうじてわたしを見遣る素江さん。妊婦さんって絶対大変だ。無事生まれるといいなあ。それに弁崎さんなら、きっと優しいお父さんになるだろう。何も心配いらないから安心してね、とまだ見ぬ赤ちゃんに声をかけたくなる。今日会ったばかりの夫婦に妙に愛着を感じてしまったわたしは、二人に向けて満面の笑みを見せた。


「お幸せに!」


小さく笑みを浮かべた二人が、それから背を向け帰っていくのを、わたしは見えなくなるまでずっと見送っていた。


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