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 安室さんは頑なにわたしを助手と公言してくれないので、外で依頼人と会う際もわたしが同席することは叶わない。駄目と言われて強行突破するのは仕事の邪魔だしさすがにそれはできないと思うわたしは毎回、彼らの座る席の真後ろを陣取り話を盗み聞きするスタイルを取っていた。
 今日もそうだ。なんでもない昼下がり、喫茶店にてアイスティーを飲んで一人時間を潰す振りをしながら、わたしは全神経を後ろの安室さんと依頼人のやりとりに集中していた。残念なことに隣のテーブルでは元気な女子高校生が大盛り上がりを見せているためほとんど聞き取れないのだけれど、ここまでついて来た日は帰りがけに安室さんから依頼の全貌を聞けるので心配はしていない。けれど自分の力で聞きたいし考えたいよね、と思った矢先に彼女たちの大爆笑が耳をつんざくのだった。

 聞き取れた単語を繋いで依頼の内容を推測すると、どうやら頼まれたのは身辺調査らしかった。大きめの鏡で身だしなみを整える振りをしながら、安室さんの向かいに座る人物を盗み見る。依頼人の名前も調査対象の名前も聞き取れなかったけれど、ぱっと見どこかの会社のお偉いさんに見えるサラリーマンは貫禄を見せつつにこにこと愛想よく、探偵である安室さんに事情を説明していた。





「今回君の出番はなさそうだよ」


 帰りの車内でそう告げた安室さんに目をまん丸に見開く。ものの三十分程度で終わった密会の概要を問うたら予想外の切り返しを受けたのだ。瞠目せざるを得ないでしょう。


「な、なんでですか?!身辺調査ですよね?!」
「まあね。僕は明日から張り込みをしようと思うけど、君がやれることはないよ」
「調べますよ!この男の素性を……あれ?」


 フロントガラスの手前に置かれた資料の束をひっ掴み、一番上に載っている顔写真を確かめ上からパラパラめくっていく。が、随分びっしりと文字が敷き詰められているじゃないか。


「そう、もう大体わかってるから。身辺調査って言っても監視を頼まれただけだし、おそらく数週間様子を見るだけで事足りるだろうね」
「で、でも実は隠されてることとかあるかもですし」
「まあそう思うなら止めないけど…」


 そう言った安室さんの言う通り、あれから家で調べたり聞き込みを行ってもこれといった情報が出てくることはなかった。というより依頼人がくれた資料のほうが詳しいくらいだ。なんでもこの男性は依頼人の会社の社員らしく、履歴書に嘘はないことはすでに調査済みらしい。見たところ変なところもないし、証明写真に写る顔もそこら辺にいそうなサラリーマン風だ。この人は近々昇進を控えているため、その前にやましいことがないか確認したかったとのこと。安室さんの言った通り、調査も一ヶ月かけずに終わりそうな案件だった。それに対象の男は平日は会社に缶詰らしく、監視すべき時間もかなり限られているのだ。

 再三読み込んだ資料をテーブルに投げ置く。今回は本当にやれることはなさそうだ。安室さんによる監視ももう二週間目に突入していたけれど、これといった変事はないらしかった。つまらない。ぐでんとテーブルに伏せると、キッチンから戻ってきた安室さんが二人分の紅茶をトレーから移動させながら苦笑いを浮かべていた。


「何を期待していたんだ」
「何かもっと、実は麻薬の密売人だったとか、そういうスリリングなものを期待してました。しかもわたし何もできてないですし」
「ああ、そのことなんだけど」


 ガバッと勢い良く上体を起こす。なんだなんだ?目を輝かせ安室さんを見ると、正面に座った彼は少しだけ済まなさそうに眉尻を下げていた。


「明日だけ代わりに監視を頼まれてほしいんだ」
「やります!」


 二つ返事で了承する。ここにきて大仕事ではないか!安室さんはホッとしたようにありがとうと言って、さっそく机に置かれていた資料の中から対象の家や出勤時刻などが記されたページを引っ張り出しこまごまと説明をしていった。一言一句聞き漏らさないよう頷きながら彼の指先を目で追う。


「で、自宅まで見届けてくれたらいいよ」
「わかりました。でも安室さん、何か用事ですか?」
「まあね。大したことじゃないんだけれど」
「そうなんですか。浮気じゃないならいいです」
「……ははっ」


 お?珍しく砕けて笑う安室さんに目をパチパチと瞬かせる。いつもなら付き合ってないだろとか言うのに。も、もしかして、とうとう脈ありなんじゃ…?内心どきどきしながら、目を逸らしてごまかすように紅茶に口をつける。
 だからこのとき、わたしを見る安室さんが悲しそうな表情を浮かべていたことに気がつかなかった。



◇◇



 杯戸町の真ん中にあるビルの近くの喫茶店で時間を潰し、会社のエントランスから出てきたその人物を追う。朝も見たけれど改めて人違いではないことを携帯のカメラで撮った顔写真で確認し、よし、と気合いを入れ直しついていく。
 わたしの格好はパッと見大学帰りの学生で、杯戸町のグルメ雑誌を持って一人で町歩きをしている風を装っている。これなら彼の家の近くまで行っても、道に迷ったと言い訳できるだろう。
 十分な距離を保ち歩いていく。男の自宅が杯戸町内で、会社へは徒歩通勤だったのは救われた。もし車だったら安室さんはわたしに頼んでくれなかっただろう。

 雑誌を片手にきょろきょろしながらついていくと、何事もなく自宅のアパートに着いてしまった。さすがに中にまでついていくのは不審なので外から部屋を見上げ、二階の部屋に入っていくのを見届けた。パタンとドアが閉まる、と同時に脱力してしまう。ああ、本当に何もなかった…。これでわたしの任務も終わりかあ。何もなかったのはいいことだとは思うけれど、果たしてこれは安室さんの役に立ったのだろうか。そう思うと溜め息をつくのも仕方ないだろう。

 そういえば、安室さんは結局何の用事だったんだろう。

 思ったのとほとんど同時に、上のほうからガチャリと、ドアの開く音がした。反射的にパッと見上げる。さっきと同じ部屋から、全身真っ黒の服を着た人物が出てきていた。辺りはもう暗いので顔ははっきりと判別できないけれど、一人用の部屋から出てきたのは、目的の男じゃないだろうか。
 さっきまでのサラリーマンのスーツ姿とは打って変わって、いかにも、そう、いかにも、人目につかないような、怪しい出立ちの彼が階段を降りてくるのを、しばらく放心したまま見ていた。それからハッと我に返って、急いで携帯を取り出す。安室さんに連絡しなきゃ。ただちょっとそこのコンビニにタバコを買いに行くだけなのかもしれない。それで着替えた服がたまたま上下黒になっただけかもしれない。たまたま黒い帽子を被りたかったのかもしれない。思いながらもある種の予感があって、わたしはコンクリート塀に寄りかかって何でもない風を装いながら携帯を操作していく。男がこちら側に歩いてきているのが足音でわかり、手が震えて携帯を落としてしまいそうだった。

「もしもし」男が誰かと通話しながら前を通り過ぎる。怪しまれてない。大丈夫だ。このメッセージを安室さんに送ってから、尾行しよう。「ああ、ああ。……で、」画面だけを見て、聴覚を全力で働かせる。


「本当に尾けられていないんだろうな?探偵には」


 時間を誰かに止められたような感覚。携帯の画面では、メッセージの送信が完了していた。
 尾けないと。見失っちゃ駄目だ。緊張で上がる息を抑えながら、ちらっと男を盗み見る。わたしに背中を向けて遠ざかっていく。電話はまだ続いているようだ。けれどわたしには一切気が向いていない。いける、大丈夫だ。


『ああ、間違いない。あいつの言っていた若い男の探偵の姿はどこにもないぜ』
「ならいい。先に駐車場に行っていてくれ」
『その前に一つ確認しておきたいんだが』
「なんだ?」


 何の話をしているかまでは聞き取れない。ポケットにしまった携帯が振動した気がするけれど取り出す余裕はなかった。


『その探偵、女ではないよな?』
「何言ってんだ。おまえが盗聴して聞いたんだろ。あいつが電話で専務に、雇った探偵は若い男だって言ったのを」
『まあそうなんだが』
「何でそんなことを聞く?」
『ああ…』

『おまえ、大学生くらいの女に尾けられてるぞ』


 男の動きが止まった。慌てて片手に持っていた雑誌を広げて立ち止まる。手汗でしわしわになったページの内容はまるで頭に入らない。全身で男の気配を感じ取ると、まだ背を向けたまま立ち止まっているようだった。


「大学生?何かの間違いじゃないのか」
『いや、確実だ。会社からずっと尾けられてる。さっきもおまえが部屋に入っていくのを見てたぜ』
「……」
『どうする?日を改めるか?』
「…いや。探偵の目がない今日がチャンスだ」


「その女にはご退場願おう」


 男が歩き出したと思った瞬間、背中に衝撃を受け、視界が暗転した。


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