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お客さんから見えないようキッチンカウンターの下で携帯を操作し発信するも、掛けた先が受話することはなかった。強制的に切られた呼び出し音に仕方なしに画面を閉じ、パンツのポケットにしまう。ふうと息をつく。
いい加減の携帯が充電切れだということを確信しているものの、彼女と連絡を取るにはこれしか方法がないため駄目元でも試すしかなかった。時刻はすでに三時半を過ぎていた。三時からシフトが入っていることを百も承知のはずの彼女は、しかし依然店に姿を見せる気配がなかった。昨日の帰り道、充電器が壊れたので今日のバイトの前に買っていくという話を聞いていたが、まさかあれが音信不通になる伏線だったとは。随所に刻み込んでいく間の悪さに内心頭を抱える。

「すいませーん」お客さんに呼ばれ、返事をしながらそちらに歩み寄る。オーダーを取り、かしこまりましたと踵を返す。今日はマスターがいるので料理の類はすべて任せている。入ったオーダーを伝え、自分はドリンクの準備に取り掛かる。そこそこ客入りはあったが人手としては問題なく回せていた。梓さんが猫に餌をやりに行く余裕もある。
が三時を回っても来ないため、自分と一緒にオープンから入っていた梓さんが残ってくれていた。何かあったのかしらと心配する彼女は自ら、が来るまで残ることを進言してくれたのだ。マスターと僕だけで回せないこともなかったが、彼女もを心配しているのが充分にわかったため無下にするのは悪いかと、何も言わなかった。

人徳故か、がすっぽかしたと思う人間はポアロにはいなかった。かくいう僕も彼女にのっぴきならない事情があったのだろうとは思っているが、そう思うのは人徳というよりは昨日の彼女とのやりとりが主な理由だった。
のことだから、ドタキャンしたら云々と散々言い張った翌日に遅刻なんて格好がつかないと思いそうなものだ。なかなか理解ができずにいるが、は変なところでかっこつけたがりというか、見栄っ張りを発揮する。その思考については彼女の妙な特徴の一つとして受け止めていた。

準備が整ったアイスティー二つをトレンチに乗せる。……僕の想像する像が正しければ、彼女はここへ行く明確な意思があったにもかかわらず来れていないことになる。原因は不明。電車の遅延情報もない。探しに行ってあげた方がいいんじゃないか。思いながら、目の前の仕事を片付けるため二人の女性客のテーブルにグラスを置く。失礼しましたと笑顔で軽くお辞儀をし下がると後ろでひそひそと話し声が聞こえた。聞く必要はないだろう。表情だけ作ったまま、軽く周りの客に気を配りながらカウンターに戻る。

ふと、窓ガラスの向こうで梓さんが腰を上げたのが見えた。猫の餌やりが終わったのだろう。膝に手を当て、中腰で猫の背中を撫で、それから首輪に指を這わせる。その指を、何かを考えるかのように顎に当てた。梓さんや道行く人の髪がなびいている。昨日ほどではないが、今日も風がそこそこ吹いていた。
「……」彼女の様子が少し気になり、入口のドアを開ける。


「梓さん?」
「安室さん。ちゃん来ましたか?」
「いえ、まだですが…」
「そうですか…どうしちゃったんでしょうね?安室さんと同じシフトの日はちゃん、いつも張り切ってここに来るのに…」
「アハハ…」


返答しづらい台詞に苦笑いを浮かべる。割といつも元気だなと思っていたが、僕がいないときのは一体どんなテンションで仕事をしているんだ。知りたいような知りたくないような複雑な気分になる。「それに今日の大尉の餌やりをお願いしたときも楽しみにしてそうだったし…」ああ、そんなことも言っていたな。三毛猫の大尉はミルクを飲み終わったあとも行儀よく梓さんの足元に座っていた。この場にがいないことにますます違和感を覚える。梓さんは先ほど、の代わりにクローズまで入れると言っていた。彼女に店を任せての行方を捜しに行っても許されるだろうか。


「…ところで梓さん、何か考え事していませんでした?」
「え?ああ、大したことじゃないんですけど…」


「そういえば大尉がここに来たとき、首輪がかなり冷たかったなあと思って…」そう言い、猫に目を落とす。十二月の屋外は基本的にどこも寒いが、首輪が冷えるというのは相当だ。どこか寒い場所にいたのだろうが、そんなところに猫がずっと留まっていたというのは不思議だった。


「それにさっき安室さんに見せようとしたの、タクシーのレシートだったんですけど、大尉の首輪に挟まってたんです」
「タクシーのレシートが?」
「ええ。ところどころ文字が消えてて、印刷ミスかなと思ったんですけど、まるで暗号みたいだったのでちょっと気になって」
「…ちなみに、どんな暗号だったか覚えてます?」
「確か…大文字のCと小文字のo、rと、大文字のP、小文字のseがそれぞれ間を空けて並んでました」
「……」


思わず眉をひそめる。そのアルファベットをつなげてできる単語は看過できるものではなかった。Corpse……コープス、死体。印刷ミスでその文字だけが浮き上がることはまずない。猫の首輪にそう簡単にレシートが挟まることもないだろう。梓さんの言う通り、誰かが作った暗号と考えた方がよほど自然だ。だとしたら猫の首輪に挟まっていたのも、人為的なものになる。


「…この猫が毎日ここに餌をねだりに来るのを知ってるのは…」
「わりと最近来るようになったから、知ってるのは私とマスターと安室さんとちゃんと、あとコナンくんぐらいですけど…」
「…へえー…」


「江戸川コナンくんですか…」無意識に笑みを浮かべていた。毛利一家に居候している少年。小学生とは思えないほどの勘の良さと洞察力を持っている。ここに居座る僕の興味の対象が毛利小五郎から彼へとはっきり変わったのは夏の伊豆での事件だった。も言っていた通り、単純に賢い。そして他の人と比べどこか異質だった。小学生であるにもかかわらず、彼ならCorpseという英単語を知っていて、なおかつレシートに細工が可能だと思えるほどに。
死体、冷たい首輪、遠回しな方法での伝達。その暗号を作った人物は今、電話はおろかメールも使えない状況下にいる。それか、充電が切れたかで物理的に使えないのか。


「………」


いや、まさかな。一瞬よぎった嫌な予感を振り払う。にそんな芸当ができるとは思えない。それならよっぽど、あの少年の方があり得る。
しかし、少し妙だ。彼はポアロに寄ることがわかっている猫に暗号を託したところで、誰に伝えようとしたのか。レシートごときで梓さんがわざわざ毛利探偵に持っていくと思ったのか?それとも、そうさせるような細工がレシートに施してあるのか。


………僕か?


彼の目に僕がどう映っているのかは興味があるが、まずは先ほど風に飛ばされたレシートを確認したかった。おそらくレシートの情報は死体の英単語だけではないはず。エプロンの紐を後ろ手で解き、首から外す。


「レシート、確かあっちの方に飛ばされましたよね?」
「ええ?!まさか探すんですか?」


暗に止めようとする梓さんにエプロンを託し、急に体調を崩したという理由で早引きすること、今日のバイト代はいらない旨をマスターに伝えるよう頼んだ。


「僕まで抜けてしまってすみませんが…」
「それは大丈夫ですけど…」
「あとそれから、が来たら連絡をもらえますか?」
「は、はい…」


ありがとうございますとお礼を述べ、歩道を南方向へ走り出す。レシートが梓さんの手を離れてから時間は経っているが、気候と立地を考慮に入れてシュミレーションすれば風に飛ばされたレシートの行方が絞り込めるはず。ポケットから携帯を取り出し、片手で操作していく。からの連絡はやはりなかった。


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