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お店前の掃除を終えた梓さんがポアロの出入り口から戻ってきた。黒のチリトリとホウキを両手に身震いする彼女に、店内のテーブルを拭いていたわたしはありがとうございますと声をかける。


「いいえー」
「寒かったでしょう、お疲れ様です」


キッチンに立っている安室さんもそう労う。クリスマス目前のこの時期はもう毎日寒くてたまらない。外に買い出しに行くときなんかは、暖かいダッフルコートが必須だ。外のガラス拭きやお掃除は比較的短時間で済むから私服にエプロンをつけたまま出てしまうのだけどついつい手短に済ませてしまいがちだ。冷え症というやつか、手足がすぐ冷えてしまうのだ。前のアルバイトでも水仕事はあったので二月の恐怖は身にしみて知っている。憂鬱だなあ。
テーブルを拭き終え、カウンターへ戻る。流しで冷たい水でダスターをゆすいでいると、店内に残っていた唯一のお客さんがお会計を済ませて帰ってしまった。カランカランとドアについているベルが鳴る。


「ありゃ」
「暇になったね」
「ですねー」


ぎゅうっと絞り、流しのそばに置いておく。お客さんがいなくなってしまった店内には従業員だけが豊富に三人もいる。平日だけどマスターが不在だからと三人入ったのに、夕方のこんな早い時間からノーゲスじゃあ人件費がもったいない。まあ、こういう日もあるよね、夜にドドドッと来るかもしれないから早上がりするのも気がひけるし。とはいえ、やることがなくなってしまったよ。緩くなっていたエプロンの紐を結び直しながら、そばでお皿を拭いている安室さんを見上げる。何食わぬ顔で(むしろちょっと楽しそうに)白食器を布巾で拭いていく安室さんに、こないだのことを思い出して無意識に口を尖らせる。


「安室さん、裏切らないでくださいね」
「……え?何が?」


とぼけた顔しちゃって!「クリスマス、急に休んだりしたら怒りますからね!」四日後に控えた一大イベントであるクリスマスイブ、ならびにクリスマスのことだ。意気揚々とデートに誘ったら予知してたようにバイトに入るつもりだと即答され、更には僕と二人で休んだらマスターと梓さんに悪いだろうともっともな理由を付け加えられた始末である。良心につけ込まれては太刀打ちできないわたしは、あれこれ打開策を考えた末、泣く泣く、じゃあわたしも二日とも働きます…と宣言して終了したのだった。「…ああ、」思い出したらしい安室さんはそれから肩をすくめた。


「ちゃんと出るよ。梓さんに聞いたら毎年クリスマスの時期は混んで大変だって言ってたしね」
「そうですよね、ドタキャンなんてしたら絶対浮気疑いますから…!」
「ひどい脅し文句だな…」


呆れたように苦笑いする安室さん。相変わらずつれない!脅し文句とか言ってるくせ全然効いてない!考えたくないけど、もしクリスマスイブに安室さんがポアロに来なかったら絶対勘ぐるよ!そんな不誠実な人とは思ってないからこそドタキャンなんてされたらよっぽどのことがあったと思う。よっぽどのことというのが、わたしの中では浮気なのだ。


「何かあれば事前に連絡は入れるよ。さすがに連絡なしで穴開けることはしないから」
「ほんっ……いや、それは人として当然ですよ!」


力を入れて言い切ると、そうだね、忙しいだろうけど頑張ろうねと締めくくられてしまう。かわされた気がする。クリスマス関係なく、安室さんはいきなり休みを取る可能性が0ではないと言ったみたいだ。…でも、そりゃあわたしだって、突然の発熱とかでお休みをもらうことはあるかもしれないから、そういうことかな。無性にすっきりしないけどこれ以上しつこくてもうざいなと察して流し台から離れる。どうしよう、バックヤードの在庫確認でもしようかな、そのあとトイレ掃除。ここに安室さんと梓さんがいてくれるなら従業員控え室の掃除もしちゃいたいかも。


「…あれ?梓さんは?」


改めて店内を見回すと梓さんの姿が見えなかった。さっき最後のお客さんのお会計をしたあと、冷蔵庫開けて何かやってた気がするけど。いつの間に、どこ行っちゃったんだろう。


「梓さんならさっき外に出て行ったよ」
「えっ。買い出しですか?」
「いや、大尉の餌やりじゃないかな」


「たいい?」復唱してもピンと来なかった。たいい……退位?大尉?まさか魚のタイじゃないよね。餌やりと言うからには動物の名前だろうか。人知れず首をかしげると、拭き終わったお皿を重ねた安室さんが加えて、「最近来るようになった猫だよ」と教えてくれた。……ねこ、ねこかあ!途端に興味が湧いて来たわたしは、わたしも見てきていいですかと安室さんに尋ね了承を得たあと出入り口へ向かったのだった。
ポアロの扉を開けた瞬間ヒュオッと北風が吹き抜ける。寒い!ぶるるっと身震いしながら、目の前の歩道でしゃがんでいる梓さんへ歩み寄る。


「梓さーん」
「あら、ちゃん」


振り向いた梓さん越しに、茶色と黒と白のふわふわした生き物が見えた。三毛猫だ。ポアロのスープ皿に注がれた牛乳をペチャペチャと飲んでいる。「その子がたいいですか?」膝に手をついて覗き込むと、すっかり人馴れしてるのか、わたしを警戒する様子はなかった。


「そうよー。ちゃん会うの初めてだっけ?」
「はい!かわいいですねー」
「でしょう?」


深く頷いて、じっとたいいを観察する。すると、あることに気が付いた。「あれ?首輪…」たいいには赤い首輪がついていたのだ。ということは飼い猫だ。ポアロで飼い始めたのだろうか?さっきの安室さんの言い方ではてっきり野良猫だと思ったけど…。


「そうなの。どこかのお家の子だと思うんだけど、最近この時間に来るようになってねえ」
「へえーそうなんですか」


迷子だろうか?途端、頭の中で童謡が流れ出す。まさに犬のおまわりさんだ。一人クスクス笑う。


「そうだ、ちゃん明日夕方のシフト入ってたわよね?」
「はい!」
「そしたら、明日大尉の餌やり頼んでいい?きっとこのくらいの時間に来ると思うから」
「いいんですか?やったー」


是非とも任されたい!かわいい動物はすきなので犬も猫も大好きだ。「わからないことがあったら安室さんに聞いてね」と言われ、頷く。そっか、明日も安室さんと一緒なんだ!嬉しいなあ。
ミルクを飲み終わるまでしばらく時間がかかるからと、梓さんと二人で一旦店内に戻った。たいいはかわいかったけど外は容赦なく寒かった。少しいただけで指先はキンと冷えていた。はあーっと合わせた両手に息を吹きかける。もちろんのようにお店にはお客さんの姿はなくガランとしている。けれど、「おかえりなさい」とわたしたちを迎えてくれた安室さんですべてが満たされたのでオッケーだ。暖かくなった心でほわっと笑い、ただいまですーと間延びした声で返す。


「たいいかわいかったですよー」
「そう、よかったね」
「明日安室さんとわたし一緒なので、餌やり一緒にやりましょうね〜」
「お客さんがいなかったらね」


苦笑いをする安室さんにそれもそうだと考えを改める。とはいえ、さすがに二日連続で閑古鳥が鳴くポアロは嫌だ。明日はマスターもいるけど、キッチンとウエイターを一人で回すのは大変だろう。となると二人でたいいを囲む日は遠そうだなあ。今現在も手持ち無沙汰に戻ってしまったので、戸棚にしまってあるファイルを取り出してシフト表を確認してみた。明日は夕方からクローズまで、明後日と明々後日はオープンから夕方まで。そのあとの二十四日と二十五日はフルだ。大学も冬休みに入るので自由時間は増えるし、探偵の仕事も最近は忙しくないので、ポアロの繁忙期はシフトの協力ができそうでよかった。シフト表をしまい棚に戻す。梓さんはさっきの外掃除の続きのように店内の掃き掃除を始めていて、安室さんは冷蔵庫のストックの確認をしているようだ。わたしもトイレ掃除してこようかなあ。
ふと、気になってカウンターの中から窓の外を見る。丁度たいいがお皿の前で鼻を掻いているところが見えた。女子高生の女の子二人組がたいいを目で追いながらすれ違う。……愛らしい見た目に反して名前は男らしいよなあ。


「梓さん、たいいって名前、どういう由来なんですか?」


真面目に仕事してる彼女に声をかけるのは少しばかり気がひけたけれど、むしろ聞くなら今しかないと思った。案の定梓さんは嫌な顔一つせず曲げた腰を伸ばし、わたしに振り向いてくれた。


「マスターがつけたんだけど…なんだっけ、名探偵のポアロによく会いに来る…」
「ヘイスティングズ大尉じゃなかったですか?」


カウンターの冷蔵庫付近にいる安室さんが教えてくれ、そうそうと梓さんが手を打った。店名であるポアロという名前の名探偵が出てくる推理小説の存在は前に安室さんに聞いて知ってたので、その理由にはすぐに納得がいった。


「へえ、たいいって階級の大尉だったんですね!かっこいいなあー」


名前の由来もおしゃれでかっこいい。あんなかわいい三毛猫が、とんだギャップもえだ。大尉かあ、いいなあかっこいいなあ。


「…じゃあわたしは少尉で!」
「控えめだね」


猫より低いんだと笑う安室さん。それもそうだと思ったけれど、大尉より上の階級が何なのかわからなくて訂正できなかった。えへ、と頭を掻いてごまかす。前にも同じことを誰かに言われたようなデジャブを感じるけど、すぐには思い出せなかった。


「…あ、そういえば大尉ってオスですよね?」
「ああ。珍しいよね」
「え?」


きょとんと目を丸くして安室さんを見上げると、彼は口を閉じて、目を丸くしていた。「珍しいって?」聞くと、クスッと口角を上げて、なんでもないよと笑われてしまった。


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