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車のドアを閉めると車内に無音が広がった。風の音も遮断され、世界から隔離された気分になる。キーは手にある。だがエンジンを掛ける気になれなかった。

暗がりの中、目を見開いたが思い出された。次に真っ赤にした顔。僕がからかったせいで意地を張り、一人で階段を駆け下りて行った。そんな取るに足らないことで、幸福を感じる自分がいた。笑い声を発して誤魔化さないと変な笑顔になってしまうほどだった。
ふっと、自嘲気味に笑みをこぼす。僕も大概のん気か、と呆れる自分がいる一方、得難いと思う自分もいた。己に課せられた使命を全うする合間でこんなことをしているくせに、離れがたいと思ってしまう。


「安室さんわたしのことどう思ってるんですか!」


無意識にピクッと指が動いた。顔を上げる。今日は快晴だった。眼前にはフロントガラス越しに駐車場が広がり、秋晴れの日差しがマンションの住人の様々な車体へと降り注いでいた。「………」そう、君のことは。


「可哀想な子だと思ってるよ」


誰もいない空間での独り言だった。本音だ。僕に、安室透に入れ込むことがどれだけ不毛で危険なことか、君は知らないのだろう。知っていればきっと今頃こんなことになっていない。知っていたのなら、一時でも僕の心を楽にすることもなく、安全な日常を過ごせているはずだ。知ることはイコールで危険に晒すことになるから、僕は、何も知らないままでは諦めてくれないと観念して、そして自分自身も彼女の存在を受け入れてしまった。そう、彼女が哀れで仕方なかった。

は僕がこれから向かう先も知らないのだ。


「……、」


携帯の着信音が聞こえ、ロックを解除する。からのメッセージだ。


[さっきは強がってすみませんでした。電車遅延してて、結局遅刻になってしまいました…]


語尾に電車の絵文字と涙を流す顔文字。駅のホームで項垂れるを想像して、不謹慎ながらフッと笑いがこぼれた。…もっと強く誘ってあげればよかった。からかうのも、よした方がよかったな。
そこまで考えて、大きく息を吐いた。この子の不運に責任を持ちたがるのはなぜか。考えなしの馬鹿じゃない、自分で何も決められない子じゃない。なのにどうしてこんなにほっとけないのだろう。

間違っても、彼女とどうにかなる気はない。そんなことをしている暇はない。いつかもそのことに気付き、無駄なことをしていると見限るかもしれない。それでもいい。むしろそうあるべきだ。この関係は僕の許容でこそ始まっているが、継続できているのはの努力によるものだ。が「もうやめた」と言えばその瞬間終わりが来る。僕は引き止めることはしない。できない。

まあ、実際のところは、が僕に愛想を尽かす気配はまだないのだが。そうなったらなったで、僕は少なからず清々するのではないだろうか。彼女の困った詮索癖から解放され余計な手間を惜しむことがなくなる。隠し事ばかりの罪悪感から逃れられ、何より彼女の身の危険がなくなる。いいこと尽くしじゃないか。そう思うと僕は今どうしてこんなことを……、

……ああいや、堂々巡りか。

どれもこれも、助手にすると決める前からわかりきっていたことだ。考えたところでそれこそ不毛だな。固まっていた手を動かし、キーを挿入口に挿しこみ捻る。
だんだんと、との距離がうまく掴めなくなってる気がするのがいけない。玄関でのことも、思いの外近くにいて驚いたのは彼女だけじゃなかった。もう一度、大げさに溜め息をつく。

とにかく、罪深い僕がにすべきことは、彼女の言葉に対し冷静に対処することだ。それには、彼女が他の誰かのところへ行くと言うのなら、喜んで見送ることも含まれていた。


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