52 バイトに行く前にちょっと顔が見れたらなと、近くのチェーン店でドーナツを買って安室さんのお家にお邪魔した。アポも何も取ってなかったけれどラッキーなことに安室さんはご在宅だったようで、呆れ顔の彼に難なく上げてもらうことができた。紅茶まで淹れてもらって、テーブルを挟んで優雅なアフタヌーンティーを嗜んでいるとあっという間に時間は過ぎていった。世間話の一環で、今日起きてから何をしてたのか聞いてみたら特に何もと返されたので、暇ならシフト入れればよかったのにと思ったけれど、休みたい日もあるよねと考え直し口にすることはしなかった。そっとティーカップに口をつけ、残りを飲み干してしまう。もうそろそろ出ないとなのだ。移動時間や準備諸々を考えると一時間前ぐらいに出発するのがベストである。今日のポアロは梓さんと交代だったっけな?平日とはいえマスター一人じゃさすがにかわいそうだ。 「そういえば、大学始まったんだっけ?やっぱり話題になってる?」 「あ、はい…ちらほら耳にしますよー」 言いながらカチャと磁器のソーサーに置き、へへっと苦笑いする。安室さんは何のことか明言しなかった、けれど簡単に察しがつく話題だった。現に安室さんも「だろうね」と肩をすくませたから、すれ違いは起こってなさそうだ。 「サークル内で二人目、しかも殺人事件となると、好奇の的だろう」 「はい…」 やっぱり、夏休みの始めの方に遭遇した伊豆での事件のことだ。同じ大学の学生だった石栗くんが殺され、わたしも容疑者だと疑われたあの事件は、結局同じサークルの桃園琴音さんが犯人として逮捕された。 あれ以来真知さんとも高梨さんとも会ってない。今月に入って大学が始まってからも姿を見ていなかった。同大の学生が同級生を殺したというセンセーショナルな話題が駆け巡る構内で、関係者の彼らはさぞかし居心地が悪いだろうと思う。でもわたしができることないしなあ、と申し訳なく思いながら、その話題に関しては知らんぷりを決め込んでいた。 「まさかとは思うけど、知らないふりしてるよね?」 「もちろんですよ!聞かれても何も答えられませんし…!」 「うん、そうした方がいいよ」 「はい……もしかして心配してくれてたんですか?」 不謹慎でもそれは嬉しい。夏休み中も後期が近づくに連れて漠然と暗い気持ちになっていたのを何とか誤魔化していたのだ。安室さんの助手になってからテレビのニュースを見るようしているわたしは、殺人事件の報道が流れるたび緊張していた。いつかあの事件の報道が流れたら、わたしはとても怖いと思う。自分が直接何か被害を被るわけじゃないのに、見えない何かに襲われるように何かが怖かった。結局、タイミングの関係か、ニュースで見ることはなかったけれど。そもそも報道されなかったのかもしれない。 スタンスは知らんぷりで決めていたけれど、不安なことには変わりなかった。安室さんに伝わってたのかなと思うと情けないけれど、心配してもらえるのは純粋に嬉しかった。安室さんはティーカップから口を離し、そりゃあね、と仕方なさそうに眉尻を下げた。 「うっかり口を滑らせて質問責めに遭ってるかもと思って」 「そんな考えなしじゃありませんよー!」 あははと笑うと安室さんは口角を上げたままわたしを見て、それから「それもそうだ」と目を細めた。それがどこか含みのある表情だったものだから、わたしは首を傾げた。けれど何を考えてるのか察しがつく前に安室さんの腕時計が目に入ってしまい、線路の分岐器がガコンと切り替わるように思考回路の軌道が変わった。パッと自分の腕時計でも確認する。 「そろそろ出なきゃ…!」 ガタガタと席を立ち出かける支度を始める。ティーカップはそのままでいいよと言われ、お言葉に甘えて薄手のコートとカバンだけを持ってお邪魔しましたと玄関へ向かった。靴の判別はつくので電気はいらないだろうと、壁についている照明のスイッチには触らず自分の靴へと目を落とす。後ろから足音が聞こえ、安室さんが見送りに来てくれたんだと思い振り返る。こんな慌ただしくさよならするつもりじゃなかったんです、やっぱり一時間半じゃ満足できな…… 「…え?安室さんもどこか行くんですか?」 謝ろうとしていた口から急遽そんな台詞が出てきた。無理もないだろう、なにせ玄関まで見送ってくれるだけだと思ってた安室さんが、グレーのジャケットやお財布を持って歩いてきていたのだから。当然のように「ああ」と短く肯定する安室さんに目を丸くしてしまう。…今日暇じゃなかったんだ。だからバイト入れなかったのかな?いやそもそも、希望は出してたけどわたしとかと被って切られたのかもしれない。だとしたら急に入った用事?「ついでだからポアロまで送ろうか?」そんなお誘いを耳に、安室さんが持つ車のキーに目を落としたわたしは、脳にビビビッと電流が走った。 「まさか探偵の仕事ですか?!」 「え?違うよ」 違った。「プライベートでちょっとね」安室さんが続けた言葉もろくに聞かずひゅんと縮こまる。てっきりまた内緒で探偵の仕事を受けるんじゃと思ってしまった、恥ずかしい。「な、ならいいです」さすがにバツが悪くて、安室さんから逃げるように向き直って靴に足を伸ばす。ポアロまで送ってくれるなんて親切なこと言ってくれたから、安室さんの目的地もそっち方面なのかと思って、だとしたら毛利探偵事務所かもと推理したのだ。違ったけど。わたしに探偵はまだまだ早いなと実感する。助手だけでも精一杯だ、というか助手でもあんまり役に立てた試しがないっていうのに。トホホと内心落ち込みながら靴の調子を整える。最近買った黒のオックスフォードシューズは、サイズが丁度よすぎて履くとき指でかかと部分を引っ張り出さないといけなかった。 「君、案外僕のこと信用してないよな」 背後で聞こえた呆れたような声に反射的に振り返る。「してますよっ……?!」思わずヒッと息を吸い込んだ。思いの外安室さんが近くに立っていたのだ。ほぼ真後ろだ。やや暗い玄関だけれど見慣れた顔はすぐに捉えられる。刺激が強すぎる!安室さんの整ったお顔を至近距離で見上げてしまったわたしは慌てて自分の顔を片手で覆い隠し、もう片方の手で安室さんのお腹辺りを押した。ううっかっこよすぎて心臓に悪い…! 「どうした?」 「ちかいです〜…!」 「ああ、ごめん」 謝るなり一歩後ろに下がった安室さん。ごめんて…!なんか前もこんなことあった気がする、そうだ二人でウエイターのバイトとして潜入した際、安室さんがわたしの曲がった蝶ネクタイを直してくれたときだ。あのときも安室さんは何の気なしにやっていて、わたしだけが照れてた。今も安室さんが近くてどきどきしてるのはわたしだけなんだ、安室さんはどきどきなんてちっともしてない。く、悔しい…。悔しくても心臓は落ち着いてくれない。 カチッと音がして視界が明るくなる。玄関の照明がつけられたのだ。なんで、と首を向けてすぐ、スイッチに安室さんの手が置かれているのが見えた。 「本当だ」 「へ?」 「顔真っ赤」自分の頬を人差し指でつんつんと突く安室さんに、いよいよカッと体温が上昇した。 「あ、安室さんのばか〜〜!!」 バンッとドアを開け外に逃げ出す。正面の外廊下の壁に手をつき身悶えしていると、背後のドアは閉まらず安室さんも出てきたらしかった。小さく笑い声まで聞こえるではないか。安室さんが意地悪だ!いたいけな女子大生を弄んで楽しんでる!電気つけたのは絶対わざと!なんでそんなことするんだよ〜〜!かっこいいよ〜〜!羞恥とときめきとで冷静になれない頭が大混乱だ。 「大丈夫?」 「……だいじょうぶです…」 顔は真っ赤だけれど、なんとか平静を保って振り向く。安室さんはやっぱりいつも通りで無性に悔しい。くちびるを噛み締めながら、いろいろ爆発しそうになる胸中で、手すりに置いた手をぎゅっと握り込んだ。 「…安室さんわたしのことどう思ってるんですか!」 「はは、愉快な子だと思ってるよ」 「褒めてないですねそれ?!」 「もういいですバイト行ってきます!」このままじゃ居た堪れないと言わんばかりに、逃げるように踵を返す。「乗ってかなくていいのかい?」後ろから聞こえた声には走ってくので大丈夫ですと声を張り上げた。エレベーターの前に行くと丁度十階を通り過ぎたところらしく、くうっと地団駄を踏みたい気持ちを堪え階段を駆け下りた。走って駅に行けば間に合うはず、ポアロに着くまでに落ち着けばいいなあ…。思いながら、さっきのことを思い出しては胸をときめかせるのだった。 |