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「お腹を冷やしたんだろう」


腰を曲げ覗き込んでくる安室さんへ、横になったまま首を傾ける。ソファに余計頭が沈み込む心地。虚ろな目で、彼の背後に見えた壁掛け時計から午後三時を知った。

あのあと急激な腹痛に襲われたわたしはトイレに駆け込んだ。一階のトイレを誰かが使っていたので、待っていられず二階を駆け上った。無人の廊下を駆け抜け、ばたんガチャリと鍵を閉める。籠城戦さながらの固さで引き籠りうんうん唸りながら、二十余年生きた身体が、お腹を下したと悲鳴をあげていた。吐きはしなかったものの胃と腸がすっからかんになるまでトイレから一歩も出られず、呻き声などを交え一時間ほど交戦してたと思う。二十分くらい経った頃に変事かと心配して来てくれた安室さんにドア越しに大丈夫かと声をかけられたけど、お腹下しましたと返すだけで精一杯だった。
ラベンダーの芳香剤をすっかり嗅ぎ慣れた頃、ようやく治まってよろよろとリビングに戻ると、準備してくれたらしい安室さんに促されるままソファに横たわった。未使用のタオルを枕に、タオルケットをかける。それから高梨さんがどこからか持ってきてくれた扇風機のそばで眠りについた。あれから一時間くらい経ったらしい。


「そうかもしれないです…」


のっそり上体を起こし、ソファに座りなおす。お腹はすっかり空っぽで、もう何も出ませんとでもいうかのようだ。冷やし中華おいしかったのになあ、もったいない…。


「他の人たち大丈夫でした…?」
「ああ。お腹壊したのはだけだよ」
「それは、よかったです」


具を盛り付けたわたしの手が不衛生だったせいかもとかうっすら思ってたのでほっとした。他の人に同じ症状が出てないということはトマトとかが傷んでたわけでもなさそうだ。安室さんの言う通り、お腹を冷やしてしまったんだろう。「はい」お水を注いだグラスをありがたく受け取る。両手で包んだそれを見下ろすと、浮かない顔をした自分と目が合った。もう気持ち悪くないけど、なんだかなあ。


「まだ具合悪い?」


正面に立っていた安室さんがしゃがんで片膝をつく。見上げるように案じてくれる彼に首を振ると苦笑いをされた。それにときめいていると、ハッと大事なことを思い出した。


「ミックスダブルスは…?!」
「ああ、まだ始まらないみたいだよ」


あっけらかんと答えた安室さんにポカンとする。「え、でも…」ちらりと壁掛け時計に目を遣ると間違いなく短針は三時を指している。まだ日は高いけれど、じきに暮れてしまうだろう。今日の目的はテニスだったはずじゃあ…。不安になってしまう。もしかしたら、わたしが寝てたからみんな足止め食らってるのかもしれない。謝ろうと顔を上げると、同じタイミングで安室さんが立ち上がった。


が起きたこと伝えてくるよ」
「あ、はい…いや、わたしも行きます!」


リビングを出て行こうとする安室さんについて行く。なんとなくこめかみに手を当ててみるけれど痛みはちっともない。お腹もべつに、大丈夫だ。今度こそわたし、全快したぞ!

ゴドッ


「っ!?」


ビクッと身を縮める。今、上から大きな音がした。何の変哲もない白い天井を見上げる。……二階?


「何だ?今の音…」
「石栗くんの部屋の辺りじゃない?」


廊下に出ると高梨さんたち同大の三人も不審がるように大きな物音の話をしていた。やっぱり日常的に聞こえる音じゃなかったよね。お風呂上がりなのか、首にタオルをかけたままの真知さんの何かあったのかもしれないとの言葉に二階の石栗くんの部屋へ様子を見に行くことになり、わたしも安室さんを追うように階段を上った。


「…え、石栗くんあれから出てきてなかったんですか?」


石栗くんの部屋は奥から二番目らしい。毛利さんや蘭ちゃんたちも何事かと上がってきたものの、当の石栗くんが姿を現わすことはなかった。部屋のドアを開けようとしてもやっぱり鍵が掛かっていて開けることができないらしく、サークルの三人が合い鍵の在り処について話している。わたしたち部外者は少し離れたところで立っていた。「ああ。少なくとも僕は見てないよ」同じく三人の様子を注視している安室さんの言葉に内心驚く。高梨さんの言う通り、よっぽど腹を立ててるのだろうか。わからないけど、ミックスダブルスがいつまで経っても始まらない理由が彼にあることがわかって少しほっとした。


「仕方ねえ…ちょっと危ねえけど、ベランダ伝いに石栗の部屋に行ってみるか。窓が開いてたら中に入れるし、閉まってても部屋の中の様子は見えるだろ」「そうね…前にもそれやったことあるし…」どうやら鍵が開かないので窓からの侵入を試みる作戦に出るようだ。石栗くんの隣の部屋を見る。この別荘にお邪魔するとき、正面から外観を見上げたけれど、そんなベランダがあっただろうか。窓が四つ並んでたのは覚えてるけど、窓の下には植木鉢を並べる程度の縁が張り出してるくらいで、人が移動するには心もとない足場だった気がする。危ないんじゃあないか?


「なんなら僕が鍵を開けましょうか?」


えっ?
パッと顔を上げる。隣にいた安室さんが一歩、彼らに近づいた。


「そういうの…割りと得意なので」


不敵に笑う安室さんの声にどきっとする。





安室さんに頼まれ針金を探しに行く琴音さんと真知さんのあとについて一階へ降り、それっぽい物がないか物色する。すぐに真知さんが見つけ、二階に戻りそれを渡すと、安室さんは鍵穴の前にしゃがんで何か心得てる様子で鍵穴に二本の針金を入れカチャカチャと探り始めた。
息を潜めその様子を見守る中、彼はものの数分で見事に鍵を開けてみせた。ガチャリと解錠される音にハッと息を吸う。


「開いたようですね」


その声にワッと湧くわたしたち。「すごーい安室さん!」「まるで怪盗キッド!」スーパーサーブを目の当たりにした今朝のように女性陣は盛り上がる。わたしも駆け寄り、負けじと賛辞を送る。


「さすがです安室さん!どこでそんなスキル身につけたんですか?」
「はは。セキュリティ会社の知り合いに内緒でコツを聞いたんだよ」


顔も広いんだ!頼り甲斐あるなあー!尊敬の眼差しで安室さんを見ていると、彼は立ち上がり、早速開かずの扉に手をかけた。金色のドアノブを下げ、押し開ける。


「…ん?何かが扉を塞いで…」


それは開ききらず、ほんの数センチ開いたところで止まってしまった。安室さんの右側に立っていたわたしは、まるでチェーンロックのような幅だと思った。まさか、部屋にチェーンロックがあるわけが……


「開けるなァ!!」


唐突に響いた大きな声に驚く。それがすぐに部屋の中から聞こえたものだとわかると反射的に覗き込んでいた。コナンくんだ。さっきの大声はコナンくんだったのだ。ドアノブを持ったまま部屋の中を凝視している安室さんを邪魔しないようドア枠に手を添える。ほんの五センチ程度の隙間から覗き込むと、間違いなくコナンくんが立っているのが見えた。「開けちゃダメだよ…」


「コナンくん!どうし…」


彼の視線は下方へ向けられていた。追うように視界を移動させる。

横たわる人の足が見えた。


「扉塞いでるの、石栗さんの遺体だから…」


頭が理解するより先に、安室さんの手によって目を塞がれた。


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