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伊豆高原の空気は心なしか都会よりおいしかった。車から降りてすぐ肺いっぱいに吸い込むと、自然と気分が高まるのだ。とはいっても、ここに来るまで安室さんの華麗なハンドルさばきでのドライブだったので、朝からずっとにこにこ快適だったのだけども。


「毛利さんたちまだ来てないみたいですねー」
「先に準備運動して身体をほぐしておこうか」


管理小屋で受付を済まし、予約していたテニスコートのそばで荷物を下ろす。ラケットは斜め掛けできるタイプの黒いケースに入れてある。はーいと安室さんに返事をしてから、トートバッグに入れていたポーチから日焼け止めを出して、腕に塗り始めた。夏真っ盛りなので紫外線が容赦ないのだ。テニスをやるのにいい天気なのはありがたいけど、焼けたくはないぞ。ちらりと盗み見ると、水色のテニスウェアを着た安室さんはラケットをケースから取り出して調子を見ているようだ。ガットの網目に指を入れて調整してる様もかっこいい。…安室さんは色黒でもかっこいいんだよなあ。しみじみ思うよ。

「テニスのコーチを頼まれたんだけど、も来るかい?」安室さんからそんなお誘いを受けたのは大学の試験が終わった当日だった。ミステリートレインに乗車した日を境に試験勉強に励み出したわたしはポアロのバイトも安室さんの助手も一旦お休みしていたため、安室さんとは一切顔を合わせていなかった。安室さん欠乏症でだいぶ死にそうだったのは想像に難くないだろう。ということでわたしは、最後の科目を終えるなり即刻大学を飛び出し、安室さんの自宅へモンブランを買って押しかけたのであった。
わたしが死にそうになってた間、安室さんも夏風邪を引いて死にかけてたことはメッセージのやりとりで知っていた。それがもう治ったことも確認済みだったからこその特攻だったのだけど、玄関のドアを開けて出迎えてくれた彼は予想以上にいつも通りだった。本当に全快してしまったらしい。そもそも風邪を引いたことを教えてもらったのも、すでに治ってからの事後報告だったのだ。わたしとしては物足りない。すぐに教えてくれたら勉強なんか放り投げて看病しに行ったのに!と駄々をこねたら「そうすると思ったから言わなかったんだよ」と苦笑いされたのでぐうの音もでない。

という久しぶりの再会を果たしたその日、久しぶりの安室さんが淹れてくれた紅茶を飲みながら、テニスのお誘いを受けたのだった。事の発端は園子ちゃん(ミステリートレインのとき安室さんに目をハートにしてた子で、蘭ちゃんの親友だそうだ)がテニスのコーチを探していたことで、毛利さんを通してポアロのマスターの耳に入ったところ、安室さんが昔テニスのジュニア大会で優勝したことを思い出したのだそうだ(その話を聞いたわたしはもちろん目をまん丸にして驚いた。全然知らなかった!)。ということで毛利さんからコーチの依頼を受けた安室さんは、先生の頼みならばと快諾し、わたしはついでに誘ってもらったというわけである。


「それにしても、ラケットあってよかったね」
「はい!実家に帰って取ってきましたよー!捨てられてなくてよかったです」


見下ろす安室さんに背筋を伸ばす。日焼け止めは塗り終わり、コート脇に座り込んだままそばのラケットケースに手を伸ばした。テニスなんて子供の頃レジャーで遊んだくらいだったけれど、その頃買ったラケットが運良くまだ残ってたのだ。赤と黒の可愛さのかけらもないデザインだけど、さすがにこの一回きりのためにラケットを買うことは考えなかった。ファスナーを開き、グリップを持って引き出す。


「安室さんのラケットかっこいいからうらやまし…てあーー?!」
「、どうかした?」
「ガット切れてる…」


取り出したラケットはなんと、ガットが切れていたのだ。しかも盛大に二箇所。家で確認したときは切れてなかったのに!これじゃあテニスできないよ!地面に手をつきわあああと項垂れるわたしに安室さんは呆れ顔だ。


「…まあ、もう一本持ってきてるから、貸すよ」
「ほんとですかっ?わーいありがでっ!」
「?!」


今度は左方向からこめかみに強い衝撃を受けた。ドッと頭蓋骨が揺れその勢いに負け右手を地面に着く。い、痛い。結構痛い。「大丈夫か?!」そばに立っていた安室さんが目の前で膝をつき覗き込む。ああ、安室さんが珍しく取り乱してる、ような……気のせいかなあ。さすがに倒れこむほどではなかったけど、頭がくらくらする。ちょっと涙目だ。患部の左こめかみを押さえる手の上に彼のそれが重なる。


「赤くなってる。痛いだろう…」

「すいません!大丈夫っすか?!」


座り込んだまま、遠くから駆けてくる男の人に目を向ける。左側のコートからやってきた彼は浅黒い肌にスポーツ用のヘアバンドをつけていた。突然の衝撃に動揺していたのか状況が未だ飲み込めないわたしは、その人がよっぽど焦った様子でこちらに駆け寄ってくるのを、深く考えず見ていた。


「すいません、ほんと…」
「コース狙いすぎだろ。いや、むしろナイスコースか?」
「石栗!」


色黒の彼より遅れて歩いてきた小太りの男の人の台詞でようやく、頭に当たったのは色黒の男の人が打ったテニスボールだということがわかった。理解してから、べつに今必要でもないのに視線を彷徨わせ、わたしたちのコートに転がっているボールを見つけた。あれかあ、なんて他人事みたいに思う。こめかみはまだじんじんと痛い。目線を戻すと、目の前にいる安室さんが小太りの男の人を横目で見遣っているのが一瞬見えた。それが見慣れない、冷ややかな眼差しだったものだから驚いた。目に焼き付けるより先に逸らされ、安室さんはヘアバンドをつけた男の人に顔を上げた。


「すみません、氷か何か冷やせる物ありますか?」
「あ、はい、クーラーボックスに…今取ってきます!」


言うなり彼は踵を返し、荷物が置いてあるコートの向かい側へ駆けて行った。あ、ああ、なんか申し訳ないことを…。だんだん落ち着いてきたわたしは罪悪感に襲われていた。後ろとはいえあんな、ほとんどコートとコートの間でのん気に座ってたわたしが明らかに悪いのに、ちょっとアウトしただけの男の人にばかり謝らせてしまってる。どうしよう、と彼の背中を見ながら思っていると、さわ、とこめかみに指が這った。不意の感覚にわっと体温が上がる。


「やっぱり。少しこぶになってるね」
「あ、わ、あむろさん…」


患部を柔らかく撫でる人差し指は、そう安室さんのものだった。わたしの頭へ腕を伸ばす信じがたい光景に口をぱくぱく開けてしまう。そういえばとっても近いし、安室さんの手つきはとっても優しいし、これは、刺激が強すぎる…!自分でも顔が真っ赤だとわかるというのに、当の安室さんは気にも留めず「意識はしっかりしてるかい?」なんてわたしの具合を案じるばかりだ。何とか肯定の返事をするとホッとしたみたいな顔をするから余計どきどきしてしまう。

そのあと戻ってきたヘアバンドの男の人から氷水の入ったビニール袋を受け取り、患部に当てて冷やした。同時にやってきた茶髪の女の人と黒髪のボブヘアの女の人にも一通り心配され(どうやらヘアバンドの人と同じグループらしい)縮こまってしまう。さっき石栗と呼ばれていた小太りの男の人だけは携帯を取りにこの場を離れたらしい。


「でもよかった、当たりどころが悪くて脳震盪とかになっちゃってたらと思うと…」
「ほんと悪い、コントロール狂っちまって…」
「あ、いえ…こちらこそ、」
「僕たちも周りをよく見ていなかったので非はあります。すみませんでした」


わたしの代わりに安室さんが謝ってしまった。ますます申し訳なくてヘアバンドの彼へ食い気味に「わたしもすみませんでした!」と謝る。それでようやくこの場は収まって、彼らは自分たちのコートに戻っていったのだった。「そういえば琴音、グリップテープちゃんと巻いた?」「ううん…でも大丈夫よ」「そんなこと言って、ラケットすっぽ抜けて誰かにぶつかったらそれこそ危ないわよ?」女性二人のそんなやりとりを小耳に挟みつつ、左手で氷袋を当てながらもう片方の手で散らかしたままの荷物を片付けようとした。ポーチとトートバッグとラケットとラケットケース。どう考えても一度で持てない。早く移動しないとまた邪魔になってしまう。思いながらポーチをしまったトートバッグを肩に掛け、ラケットに手を伸ばす。と、それは別の手によって拾われた。安室さんだ。


「あっち行こうか」


彼は自分の荷物だけでなくわたしのラケットとケースを拾い上げ、その上肩にかけたトートバッグもひょいと取り上げ歩き出したではないか。呆気に取られるわたしに、振り返った彼は「大丈夫?」と声をかけてくれる。ハッとして、追いかける。


「あっ、ありがとうございます!」
「走らなくていいよ」


どきどきしながらセンター寄りのフェンスのそばに移動し、寄りかかるように座り込む。さっきより左右のコートと距離があるので、ボールは飛んでこないだろう。
同じくフェンスに寄りかかる安室さんを見上げる。ガットの切れたわたしのラケットをケースにしまう彼が視線に気付くと、「いきなり踏んだり蹴ったりだったね」と眉尻を下げて笑うので、痛いのなんてどこかに吹っ飛んでいきそうだった。


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