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が来る三時まであと十分。キッチンのガスコンロでお湯を沸かしながら僕は依然、彼女に対する上手い言い訳を思いつかずにいた。

毛利探偵の事務所に侵入したのは一昨日の夜。子供たちから送られてきたのは思い出の写真などではなく、ムービーだった。それもただのムービーじゃなく、映像は燃え盛る山小屋をバックに子供たちに言い聞かせる女性を中心に撮られていた。そしてその女性こそが、僕がここに居座る理由である彼女だった。
今まで影すら見せなかった彼女をこんなところで目にするとは思っていなかったものの、組織内のデータで見た記憶と違わぬ姿はシェリーであることを確信させた。フードを被り彼女らしかぬ取り乱しようだったため緊迫した様子は伝わってきた。もちろん、背後の火事が原因ではあろうが。

翌日である昨日、今度は毛利一家のいる昼に赴き話を聞き出したところ、シェリーと思わしき彼女は群馬の山奥の小屋に隠れ住んでいたのだという。それを聞いたのはムービーに写っていた少年探偵団の彼らで、それ以外の情報を聞く前に彼女は姿を消したらしい。なんでも彼らは事件に巻き込まれ、火を放たれた山小屋に閉じ込められたところを彼女に助けてもらったらしく、そのお礼がしたいと思い動画を撮って毛利探偵に彼女の正体を調べてもらおうと思ったのだそうだ。僕もその場でもう一度見たが、やはり何度見ても黒の組織の一員である、シェリーにしか見えなかった。もちろん、見覚えないと首を振ったが。

正体といえば、あのパソコンをハッキングしていた人間の正体も結局掴めていない。同じようにシェリーの行方を追っているジンやウォッカかと思うがどうにも彼らのやり方にはそぐわない。それにそんなことをしなくとも、この情報はベルモットを経由して彼らに伝えられたはずだ。だとしたら一体誰が。

とにかく、それが誰であろうとシェリーがミステリートレインのパスリングを指にはめていた以上、僕らも同乗しない選択肢はなかった。走行は今週の日曜。との約束を入れていた日だ。相変わらず間の悪い子だと呆れつつ、申し訳ないという罪悪感はある。しかしこちらを優先しないわけにはいかないのだ。シェリーを探し出し始末することが、組織から僕に下された使命だ。
ベルモットとの打ち合わせは昨日のうちに済ませてある。流れや必要なものの確認はでき、あとはミステリートレインに乗車すべくパスリングを入手するだけだった。幸いオークションには何点か出品されているのでこちらの心配もない。部下にヘリの手配も済ませてあるし、ベルツリー急行の辿る経路の下調べも完了している。終点は名古屋駅、ベルモットから聞いた感じではジンとウォッカがそこで待機していそうだ。それを逆手に取るように立てられた計画は、ベルモットとしても彼らと鉢合わせる前に片を付けたいと思っているのがうかがえた。


『それから、おびき寄せたシェリーを始末するのはあなたがやってちょうだい』
「え?」
『借りのこと、忘れたんじゃないでしょうね?』
「いえ、それは覚えてますが…わかりました」


ベルモットらしくない。内心思ったものの、そちらの方が都合が良かったため素直に了承することにした。ベルモットには悪いが、僕は彼女を殺すつもりはないのだ。

それにしても、姿を隠すためとはいえシェリーが群馬の山奥に身を隠すとは考えにくい。以前目撃された場所は杯戸シティホテルだ。そこからなぜ山の中という選択肢に行き着くのか。それに指にはめていたパスリング。大勢の人に紛れて名古屋へ逃げるつもりだろうが、山奥に隠れていたとしたら入手が難しいはず。……やはり群馬にいた可能性は低いな。しかしそうするとあの場にシェリーがいた理由が推測しづらいが。

無機質なインターホンの音が部屋に響いて我に返る。が来たようだ。とっくに沸騰していたヤカンの火を消し、玄関へと出向く。結局断りの言い訳はまったく思いついていない。には悪いが、予定が入ったと言うしかないか。


「おはようございます!お邪魔します!」
「いらっしゃい」


いつものように招き入れ、リビングへと促す。大学が全休であるこの曜日は探偵業の手伝いとかこつけて朝から訪問されるのが週課になっていた。「今日はわたしが淹れますね」と言ってキッチンに向かった彼女にじゃあと任せ、自分はダイニングテーブルのイスに腰掛ける。間もなくして準備の整ったトレーを持ちキッチンから戻ってきた彼女は慣れたようにテーブルにお茶の形を整えていく。ここでの慣れもあるが、ほとんどは接客業で培った手際の良さだろう、と何となく思った。…そう、僕だって、君と時間を共有して知ったことはそれなりにたくさんあるんだと思うよ。まさかそれを簡単に口にするわけにはいかないけれど。
向かいに座ったはにこにこしながら紅茶に角砂糖を浮かべる。その笑顔にやはり罪悪感を覚えるが、こういうのは早く伝えるべきだろう。紅茶やお茶菓子に手をつける前に切り出すことに決める。


、悪いけど今週の日曜…」
「はい!あ、そうでした!えっと…」
「いや、だから」
「これです!ミステリートレインパスリング!」


……は。その横文字が耳に届いた瞬間思考が一時停止した。カバンから取り出しテーブルにコンと置かれた、指輪を模したそれ。頭が、ゆっくりと再稼動しだす。嫌な方向へ、嫌が応でも。


「……まさか」
「お部屋は七号車ですよー」


ミステリートレインのパスリング。金属色のそれが外の日の光を受けて鈍く光った。
七号車。火事騒ぎを起こす八号車の隣だ。彼女は他の乗客と同じように逃げるだろうか。もし逃げられなかった場合、もしくは僕の不在を案じて無茶な行動に出た場合、計画に介入されかねない。(…邪魔だ)思わず口にしそうになった言葉を飲み込む。そんな攻撃的な台詞が思いつく程度には動揺していた。どうしてもあの場にいてほしくない。いてもらっては困るのだ。に任務中の僕が見つかったら知らないふりはできない。ベルモットにも存在を知られてしまう。

脳はフル回転を見せていた。計画手順とが取るであろう行動をすり合わせ、打開策がないかと考える。自己保身のためではなかった。とにかく彼女を巻き込むまいと。


「…ちなみにそれ、僕が行かなかったらどうなる?」
「友達誘います…え、行けないんですか?!」


「……いや、行けるよ」しかし来させないという選択肢はなさそうだ。この様子じゃ彼女は確実に乗り込むだろう。だとすると下手に別々で乗車するよりは近くに置いておいた方がこちらとしても安心できる。ベルモットには存在がバレるのを承知の上ということになるが、となるとの扱いも考える必要がある。


「抽選だったんですからねこれ!散々安室さんに運が悪いと言われてきたわたしですがこうして高倍率の激戦区を勝ち抜くことができたんです。これを機に不運返上させていただきます!」
「…いや、返上はまだ早いかな」


間の悪さは神がかってるよ。携帯をポケットから取り出し、ネットオークションのページを開く。落とす予定だった二つ目をキャンセルし、溜め息を飲み込んで再びしまうのだった。


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