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 エントランスの自動ドアをくぐると、業者の男二人が工具箱を持ちエレベーターの前に立っているのが見えた。瞬時に、既視感とも呼べない確信を覚える。足を止めることなくそちらへ近付いていく。扉が開き、出てきたのは予想通りの人物だった。


「あ!安室さん!」


 目を合わせた途端それを輝かせる彼女は僕の助手を自称する女子大生だ。三ヶ月ほど前に出会ってからというものの付きまとわれ続け、振り払うも図太い精神の持ち主である彼女はめげることなく僕の家に押しかけたり仕事に首を突っ込もうとしてくるのだ。エレベーターの業者にお礼を言いこちらに駆け寄ってくる彼女に溜め息をつく。彼女の背後で、業者の一人が「メンテナンス中」と書かれたサインボードをエレベーターの前に立てた。


「……また閉じ込められたのか」
「え?あ、そういえばまたですね」


 このという人間について僕はすでに調べ上げ、おそらくほとんどのことを把握している自信がある。情報として得たこと以外にも、実際に接することでわかったことも多くあった。その中で確信したことの一つに(表現として矛盾しているが、)彼女の生まれ持った運のなさがあった。
 新築な上何を取っても高性能であるこのマンションだが、エレベーターの故障だけはこの三ヶ月で既に三回起こっている。そしてそのとき乗り合わせ、一定時間箱の中に閉じ込められる目に遭うのは、決まってこの子だった。毎回エレベーター内からの通報が同じ人から来るものだから、管理人も業者もが何かいたずらをしていると疑うのも無理はない。現に今も後ろから疑るように見ているが、残念ながら故障の原因は人為的なものではないため注意するにできず、人の良さそうな彼女を箱から救出し解放するだけに留まる、その一連の流れが直近で三回はなされていた。


「それより安室さん、お仕事だったんですか?」
「ああ、まあね」
「聞かせてください!お茶菓子のロールケーキも買ってきたので!」
「……」


 駅前の洋菓子店の箱を見せて笑う彼女に、はあ、とこれ見よがしに溜め息をつく。こちらからの探りを入れやすいからと手伝いを了承して三ヶ月、今さら無下にあしらえないのが本当のところで、今日も惰性ともいえる流れで彼女の突撃訪問を受け入れる。粘り強いというか執念深いというか、エントランス前で日夜張り込む彼女が警察沙汰になる前に暗証番号を教えたのは間違いだったかもしれない。

 あの日、コンビニへ送り届けて帰ってしまうという選択肢もあった。しかしそうしなかったのは、彼女が僕を探りに来た組織の人間の可能性があったからだ。素人じみた尾行も、それが犬に吠えられて失敗したのも、僕を油断させるためにわざとだったのではないかと。もしここで逃したら僕の方から見つけにくくなると思ったのだ。
 まあ結局、調べても何も出てこない彼女は早々に白と確信したわけなのだが。むしろこんな子を一度でも組織の人間と疑った自分を情けなく思うくらいに、いっそ清々しいほど彼女は一般の女子大生だった。動向を調べるため大学に使うカバンに仕掛けた発信器も、有益な情報を残すことはなかった。

 故障していない方のエレベーターに二人で乗り込む。無意識に溜め息をついていた。だいたい、犬の件はどうであれ、鳥の糞を意図的に被ることのできる人間がどこにいるというのか。それに僕が見ている限りでさえ数え切れないほどの度重なる不運。
 だが、それだけだった。僕を監視する組織の人間ではない。僕が関わる様々なこととは無関係の、ただの一般人でしかない。

 だから早く、距離を取らなくてはと思っている。彼女が不運体質かどうかは問題ではない。何も知らないこの子を、僕の問題に巻き込んでいいわけがない。けれど。


「どうかしましたか?」
「……君の頭に鳥の糞が降ってきたのを思い出したんだ」
「え!奇遇ですね!わたしもさっき思い出してました!これはもう結婚するしかないですね!」
「それは遠慮しておくよ」


「あ、相変わらずつれない…」がっくり肩を落とす彼女を見下ろし、つい笑みを零してしまう。こんな茶番じみた平和なやりとりを、悪くないと思っている自分がいるのも確かだった。


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