18


 あいにくの大雨となった潜入当日。安室さんと一緒に従業員控え室に入ったわたしに手渡されたのは、なんとキッチンスタッフの制服だった。


「はい?」


 まさかの展開にさすがの安室さんも目を丸くしている。しかし当の店長はどうしたのかと言わんばかりに首を傾げているので、いやいやと自分がウェイターであることを主張すると、今度はえっと驚かれてしまった。どうやら店長の手違いでキッチンスタッフとして採用したことになっていたことが発覚し、話し合うため事務室に連行されることとなったのであった。
 わたしがバタバタしている間に安室さんはさっさと更衣室に移動し支度を済ませていたらしく、店長との攻防に決着がついて着替え終わったときには、控え室でキッチンスタッフと見られる青年と談笑している姿があった。
 ドアを開けた状態でポカンと固まってしまう。い、意外な光景だ……。入り込みたいようなずっと見ていたいようなの乙女の複雑な心境。それからなんとなく壁伝いに動くと、すぐに気付かれて振り向いた安室さんと目が合った。わたしの格好を見て気の抜けた笑みをこぼす。


「こっちに来れたんだね」
「な、なんとか…」


 わたしが着ている制服はウェイターのものだ。キッチンスタッフが足りなくなるからよければそっちを手伝ってほしいと頼む店長に罪悪感に痛みながらも無理です料理できませんウェイターやらせてくださいの一点張りでなんとか勝ち取った。ウェイターの制服はワイシャツに黒のベストとスラックス、藍色の蝶ネクタイに白のエプロンというちょっと高級感のあるコーディネートだ。蝶ネクタイ初めてつけた、どきどきするなあ。とかなんとか、それよりも!


「安室さん、伊達眼鏡も似合いますね!」
「どうも」
「なんて軽い切り返し!」


 そう、安室さんが眼鏡をかけているのだ!普段コンタクトだしさっきまでかけてなかったのだから伊達で間違いない。黒縁眼鏡の恐ろしいまでの似合いっぷりに興奮してしまうのも無理ないだろう。変装のためなのか、確かにいつものまま出て行ったら目立つかもしれない、いや確実に目立つ。安室さんかっこいいからなあ〜…。そしてそれを自覚して隠そうとするのは安室さんらしい判断だなとも思う。
「あれ、安室さんそれ伊達だったんすか?」そんなわたしたちの会話に入ってきたのはさっきまで談笑していた青年だった。安室さんと一つ席を空けて座る彼はパッと見わたしと同じ大学生で、社交的な性格のようだった。


「ええ、まあ…」
「ずっとかけてるっすよね。なんでなんすか?」
「目立たないためですよ。苦手なんです」


 その理由はどうなんだと思いつつ、男の子はへえーと返すだけだった。興味は薄れたらしい。すると今度はくるっとこちらを向いたと思ったら、唐突に自己紹介をしてきた。そういえばまだだったと名乗ると、彼はわたしと安室さんを交互に見てから再び口を開いた。


「お二人はどういう関係なんすか?もしかしてカレカノ?」
「えっ、まあいずれはそ」
「親戚なんです」


 くっ、だめか…!容赦なく遮った安室さんを恨めしげに見遣るとふざけるなとでも言うかの如く横目で睨まれた。まあ、ノリで肯定しようとしたわたしに非がありますね。おとなしく黙り、これまたへえーと返した男の子の「さん、そこのお茶勝手に飲んでいいんすよ」との気遣いにありがたく備え付けの給茶機から紙コップにお茶を注いだ。といっても壁掛け時計を見るにシフトまであと少ししか時間がない。その証拠に青年は「じゃあ俺先行きますね」と言って控え室を出て行った。感じのいい人だったなあと思いながらぐびっと一気飲みし、紙コップをゴミ箱に捨てる。


「僕らも行こうか」
「はい!」


 気付くと立ち上がっていた安室さんはすでにエプロンを締め終わっていたので、わたしも彼へ歩み寄りながらそれを後ろ手で結ぶ。一度きゅっと結んで、





あとは蝶々結びだというところで呼び止められ、顔を上げる。正面に立つ安室さんはわたしをじっと見下ろしていた。「あむ、」おもむろに、彼の両手が伸ばされる。わたしの首元へ。


「……はい、いいよ」


 蝶ネクタイを直すと手はすぐに離れていった。「自分じゃなかなか気付けないよね」そう言いながら安室さんは何事もなかったかのように控え室のドアを開ける。しばし呆然と立ち尽くしていると、気付いた安室さんに再度呼びかけられた。それにようやく我に返り、パパッとエプロンを締め駆け寄るのだった。


「…もーー心臓に悪いですよー!!」
「え?…ああ、ごめんごめん」
「そこで謝られても困ります…!」


 曲がってたならそう言ってよ!めっちゃどきどきしたよ!でも安室さんは全然意識してないみたいだ。くそう、道は長い…。


top /