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 わたし、案外間違ってないんじゃないかと思う。


 安室さんに運んできてもらったアイスカフェラテをテーブルに置いたままストローで吸い上げる。行儀が悪いけれどあいにく誰も見ていないし、横着するのにはそれなりの理由があるのできっと許されるだろう。もっとも、誰かの目があればちゃんと持つ。冷たいから、絶対持てないなんてことはない。きっと安室さんはその辺りもちゃんと考えてアイスにしてくれた。
 ふう、と孤独の控え室でイスの背もたれに寄りかかる。何となしに仰いだ天井に黒い点を見つけじっと見つめていると、それはじりじりと動きだした。何という現象だったか、思い出そうとしてすぐにやめた。


「頼むから早く諦めてくれ。……僕のことなんか見限って、何も知らずに幸せになってくれ」


 頭に浮かぶのはもっぱら昨日の出来事だ。昨日までのこと、大破した車、怪我をしたあなた。聞きたいことはたくさんあったのに、安室さんにそう言われた瞬間、泣きじゃくるわたしの脳みそは生来の都合の良さから、「安室さんはわたしのこと嫌いなわけじゃないんだ!」という結論を真っ先に弾き出した。まったく冷静ではなかったけれど、そんな受け取り方をしたものだから、泣き止んで落ち着く頃にはすっかり安心して、明日話を聞くと言ってくれた安室さんにも迷わず頷いていた。
 帰宅し、両手にビニール手袋を装備し奮闘しながらお風呂に入って布団に横になった頃、ようやく冷静さを取り戻した。真っ暗な部屋で一人、ごくっと固唾を飲む。己のポジティブ加減がさすがに恥ずかしくなったのだ。安室さんべつに嫌いじゃないなんて一言も言ってないじゃんね……。

 でも、嫌いとも言われてないな。

 思い返すと、エッジオブオーシャンで会った安室さんはこれまでも時折見せたことがあるような、罪悪感をはらんだ表情をしていた。わたしを見つめて、憐れんでいるようにも見えた。何を憐れんでいたんだろう。安室さんを諦められないこと?見限れないこと?もしそうならびっくりしてしまう。安室さん、自分のことをどれだけ悪人だと思っているんだろう。

 でも、当たっていたら。安室さんの伝えたかったことが「何も知らずに幸せになってくれ」なら。そのためにわざとわたしを傷つけたのだとしたら。

 今まで一緒にいて、わたしをすくい上げてくれた彼の言葉は、何も嘘じゃなかったんだなあ。

 また眼球が熱くなって、涙が滲んで、仰向けになった耳へと流れていく。布団の中で一人さめざめと泣く。安室さんの隠し事が、なんだかとてつもなく心細いものに思えて、そんなものをずっと懸命に抱きしめていなければならない安室さんの孤独を思うと、余計涙があふれた。





 イスに座ったまま閉じたまぶたがじんわり熱を持つ。大きく深呼吸して落ち着かせ、ゆっくりと開く。もう涙はこぼれない。
 実際のところ、安室さんがわたしを遠ざけようとした理由は見当もつかない。だから、この考え自体が能天気な独りよがりの妄想なのかもしれない。
 でも少なくとも、安室さんの大切な人は梓さんではないと思うんだよなあ……。

 テーブルのそばのドアがノックされる。応答すると、ドアノブが下がり、押し開かれる。


「具合はどう?」
「問題ないです!」


 そう、と小さく笑みを浮かべる安室さんににへらと笑う。安室さんは?と自分の腕に手を当てる動作をすると、調子を変えず大丈夫だよと返される。どうやらお昼ご飯を持ってきてくれたらしく、トレンチの上にオムライスとスプーンが乗っていた。安室さんは、「スプーンなら使えるかと思って」と言うと、お客さんへのサーブというより自宅で振る舞うときのようにフランクにお皿を置いた。ありがとうございますとお礼を言う。


「安室さんもお昼休憩ですか?」
「ああ」
「じゃあ一緒に食べましょう!」


 わたしからのお誘いに、安室さんは一瞬返答に窮するそぶりを見せると、目を逸らしたまま、それじゃあお言葉に甘えて、と口元だけで笑った。
 自分の分の昼食を持ってきた安室さんと、同じオムライスを挟んで向かい合う。「いただきます」と手のひらを一センチ離して合わせ、スプーンで卵とチキンライスをすくい口に運ぶ。とろとろの卵とトマトケチャップのチキンライスのよく合うこと。本当に、ポアロはフードメニューも全部美味しいよなあ。


「安室さんが作ってくれたんですか?」
「そうだよ」
「ありがとうございます!おいしいです!」


 はっきり感謝と感想を伝えると安室さんは苦笑いを浮かべて、目を伏せた。さっきから安室さん、様子が変だな。まるで一つ一つ、どう反応していいのか戸惑っているみたいだ。わたしをここに座らせた強引さはどこへやら、こちらの様子をうかがうような挙動に違和感を覚える。
 二口目を口に入れもぐもぐと咀嚼しながら考える。というか、もしかしたらわたしのほうがおかしいのかもしれない。昨日までとは明らかに違う安室さんの態度や、昨日彼の身に起きた出来事。これをわたしが追及しないのはおかしいのかも。
 気になるといえばもちろん気になるし、教えてもらいたいのも本当だ。けれど、でも、だって、安室さんの躊躇うような表情こそが、今のわたしの欲しい答えなんだものなあ。
 やっぱりわたし間違ってない。一口分のオムライスを乗せたスプーンを持ったまま、手をテーブルに置く。


「安室さん、昨日のこと、頼んだら教えてくれますか?」
「……いや。何も話せないよ」


「ですよね…」予想通りの返答だ。いいや一昨日のことを踏まえたら、想像していたよりずっと優しい言葉だ。いつも通りの安室さん。ほら、だから、昨日までの数日がなんか変だったんだって、わかるよ。そう考えるのが一番しっくりくるんだもの。
 これは自意識過剰だろうか。安室さん、わたしにすごく手間をかけてくれているように感じるのだ。


「一緒にいることはお互いのためにならないと思ったんだ」


「え、」気付くと安室さんも手を止めていた。目を伏せたまま、口元に自分を嘲るような笑みを浮かべている。珍しく言い淀んでいるのがわかる。無意識に背筋を伸ばしていた。


「知りたがりの君と、人には言えない秘密を持つ僕は、一緒にいても消耗するだけだ。だから、これ以上関わらずに早く離れるべきなんだ」


 安室さんの口から紡がれる言葉一つ一つを理解しようとして、多分うまく行っていない。目の前の悲しいことを言う安室さんが、嫌だって思ってるように見える。無理して言ってるんだと思ってしまう。昨日だって、「頼むから早く諦めてくれ」なんて、安室さん、わかりましたって言うと思ってるのだとしたら、わたしのこと随分と軽んじているよ。
 安室さんがそんな風だから、他に大切な人がいるって話だってマユツバモノだ。よくもまあ、言ってくれたなあ。どれだけショックを受けたと思ってるんだ。文句の一つでも言ってやりたいよ。でもだからって安室さんを見限るなんてこと、ない。
 安室さんは果たして本当に、自分の提示した可能性を選び取ってほしいのだろうか。しようとしたってきっと、思い出が止めるでしょうよ。


「わたし、安室さんと出会えてよかったってすごく思ってますよ!」


 安室さんが眉間に皺を寄せ顔をしかめる。でもそれは、不快なのではなく、何かを堪えているように見えた。
 だって安室さん、わたしにしかこんなことしないもの。梓さんはおろか他の人の面倒を見たり、手酷い芝居を打ったりしない。わたしを傷つける言葉を並べたてて的確に遠ざける、見事な仕打ちをしたりしない。安室さん、わたしのためにいろんな手を尽くしてくれている。これまでずっとそうだった。いいことも悪いことも、安室さんがわたしを想ってやったのだと確信できる。そりゃー得意になってしまうでしょう。


「だから、離れるんじゃなくて、ずっと一緒にいる方向で考えたいです。お互いのためになるならないは、正直、安室さんのためになれている自信はないんですけど……わたしが安室さんのことを見限らないってことだけは、安心してください!」


「いたっ」無意識に拳に力が入りビリッと痛む。反射的に手を緩めて見下ろすと、いつのまにか水疱が破れて皮がめくれていた。握り込んだ爪で触ってしまったらしい。くっ、こんな火傷さえなければ格好がついたのに…!悔しい気持ちになりながらお手拭きを掴み、再度向かいの安室さんへ顔を向ける。安室さんはさっきより俯いていて、前髪が目元に影を作っていた。口元は、かろうじて笑っているように見える。


「君は、僕がつく嘘を許せるのか?」


 えっ、と目を丸くする。それから、顎に手を当てて考えてしまう。安室さんの嘘、許せるか……。


「物によると思います…」


 安室さんが目線を上げる。後ろめたそうな顔だ。よっぽど悪いことをしたと思ってるんだ。煮え切らない返事しないではっきり肯定してあげたらよかったかも。でもなあ……。


「わ、わたしも傷つくので、ちゃんと…」
「…ああ。知っているよ。知っていて何度も傷つけたんだ」


「一緒にいたらきっとこれからも傷つける。君に僕の隠し事を知られるわけにはいかないから」悲しい宣言をされ、ぐう、と顎を引く。安室さん、一体どんな隠し事をしているんだろう。全然想像つかない。本当にわたしが到底許し難いことなのだろうか。目の前の安室さんのこと、信用しているから、そんな気がまるでしない。


「でも、それが安室さんのためになるなら、わたし安室さんを守りたいと思ってるので、許せると思います…」
「……」
「あ!いや、多分…?許せないこともあるかもしれません…!頑張りますけど、怒りたくなっちゃうかもです!」
「どっちだ」


は、と笑う安室さん。気の抜けた笑みに無性に胸が痛む。ほらだから、わたし安室さんに安心してもらいたいんだよ。


「想像で言い切るの難しいですよ!でも守りたい気持ちも一緒にいたい気持ちも間違いないので、安室さんも諦めないでください!」


 言い切ると、安室さんは何かを考えるように、すっと目を細めた。それから、「……そう言われると否定したくなるの、なんでだろうな」眉を下げ声を上げずに笑う。「否定しないでくださいよ!」思わず突っ込むと、「ごめんごめん」と口にして、小さく肩を震わせる。やだなあ、この期に及んで諦めるなんて言わないでよ。


「それに、安室さんがひどい嘘をつこうが隠し事をしていようが、近くにいたら助けられますよ!だからとりあえず一緒にいましょう!」


 安室さんを説得しているうちにだんだんと自分も整理がついてきた。最初は、共助するには共有が前提だと思っていたから、隠されたら何もできないと思っていた。でもそんなことはなくて、「隠している」という状況さえ教えてもらえたら、隠し事がどんな内容だろうが、助けることができる。わたしの知らないところで危ない目に遭っていたり、果ては急に姿を消されてしまうより、できることはずっと多い。これなら絶対って言える。絶対、離れるより一緒にいたほうがいい。
 安室さんは笑みをたたえたまま視線を左下へ動かした。ややあって、息を大きく吐き出し、脱力したように背もたれに寄りかかる。


「本当は僕は、君がいなくても大丈夫なくらい強くないといけないんだけれど」
「その強さは諦めてください!代わりに、わたし頑張って安室さんの力になるので!」


 両腕を上に曲げマッスルポーズを取ってみせると、安室さんは参ったというように肩をすくめて、「心強いな」と笑った。


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