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 シフト通りオープンからポアロで働いている最中、時間を見計らって毛利家へ訪問した。朝食として差し入れを持っていく口実で様子を確認するためだ。出迎えた毛利蘭を始め、玄関から覗き見えた毛利小五郎と妻の妃英理は想像以上に元気そうだった。三人の一家団欒自体は初めて見る光景だったが、日常に戻ったのだろうことは察することができた。「それじゃあ、失礼します。食器はあとで取りにくるので」蘭さんにそう告げ、早々に玄関をあとにする。
 テナントビルの細い階段を一人降りていく。彼らの元通りの様子を見ることができ、安堵する自分がいた。はっと自嘲気味に笑い、左の二の腕に手をやる。まだ熱を持っているが、痛み止めのおかげで動きに支障はない。午後まで問題なく働ける自信はあった。
 店に戻ると、客は高齢の男性が一人のみで、出たときと変わりはなかった。開店の準備から一緒に働いていたマスターがカウンターの内側から「おかえり」と迎えてくれ、笑顔で応える。
 それから、時計を見上げる。九時十分前。……そろそろか。


「おはようございます」


 心構えをしたのとほとんど同時に、従業員用の扉が開いた。そこから現れた人物に、思わず目を見開く。


「梓さん?」
「はい?」


 エプロンを身につけ出勤したのは梓さんだった。彼女はきょとんと首を傾げると、すぐに僕の疑問に気付いたのか閃いたように、「ああ!」と手を叩いた。


ちゃんと代わったんです。昨日頼まれて」


 一瞬、胸を突かれたような衝撃。すぐに、「そうだったんですね」と愛想を浮かべて返答する。努めていつも通りの足取りでカウンターに戻る。
 が九時からのシフトを梓さんと代わった。……避けられたのか?顔を合わせたくないと思われたのだろうか。昨日はシフトが終わったら話すつもりで伝えたが、嫌だったのか。別れ際の彼女の笑顔が思い出される。とてもそんな風には見えなかった。いや、そう思いたいだけなのかもしれない。僕が察せなかっただけで、あれが最後だと、彼女は心に決めていたのかもしれない。
 そもそも拒絶されてしかるべきことをしたのだ。散々傷つけた。僕のことを見限るようはっきりと伝えもした。それをがようやく受け入れただけのことだ。
 喉が乾く。心臓の動悸が激しい。納得しようにも思考のどこかで否定したがる自分がいる。何をそんなに動揺することがある。もうのことは諦めたというのに。


ちゃん、大変みたいですよ」


 カウンターでドリンクの準備を始めた梓さんが誰となく話しかける。マスターは同意するような目線を向けていたため、自分が反応するところなのだろうと察する。「大変って?」調理スペースの前に立つ僕に顔を上げた梓さんは神妙そうに眉根を寄せ、おもむろに両方の手を肩の高さまで上げてみせた。


「両手、火傷しちゃったんですって」


「――え?」瞬間、昨日の記憶が脳裏をよぎる。燃え上がる炎の中、手を伸ばした。僕を助けようとしたなんて言っていた。止められたと思っていた。まさか、間に合っていなかったのか。
 そして、気がつけなかった。いくら思い返しても手のひらの異常が目に留まった覚えがない。あの暗さの中、炎を背にしていたの細部を見とめることは困難だったように思う。何より僕が、と向き合うことに後ろめたさがあったのだと、今日になって改めて自覚させられる。


「…あ、でも携帯も壊れちゃったって言ってたから、安室さんに連絡したくてもできなかったのかな」
「……」


 ポアロへの連絡はエッジオブオーシャンから帰ったあとか。の家には固定電話はなかったはずだが、どう入れたのか――。

 思考を巡らそうとしたタイミングで、背後でドンッとくぐもった音が聞こえた。従業員用の扉の向こうからの音だと直感しながら、カウンター内にいたマスターたちと一斉に振り返る。


「やっぱり…!」


 体当たりの要領で扉を押し開いていたのは、欠勤したはずのだった。


「あら、ちゃん?」
「ほんと気が利かなくてすみません!わたしが梓さんと代わってもらっちゃったから安室さん休めなかったですよね、すみません…!」


 エプロンを腕にかけ、ドアを身体で押さえ立ち往生している。取り乱している様子の彼女に呆気に取られる三人。いち早く状況を理解したのは、当然ながら僕だった。……いや、だとしても、何を言っているんだこの子は。


「腕怪我してる安室さん働かせるくらいならわたしが入ります!使い捨ての手袋買ってきたので!マスター、いいですか?」
「駄目だ」


 マスターが答えるより先に返す。早足で彼女へ歩み寄り、肩を押しやるように背後の薄暗い通路へ連れ出す。「少し外します」後ろの二人に断りを入れるだけし、返事も聞かず扉を閉める。

「えっ、え?」動揺するの手首を掴んで控え室へ連れて行く。入るなり彼女が持っていた調理用手袋とエプロンをテーブルへ放り捨て、壁まで追いやり逃げないよう距離を詰め目の前に立つ。が驚いた顔で身をすくませたのがわかる。


「手、見せて」
「えっ、」


 身体の横に真っ直ぐ垂らしていた両手首を掴んで無理やり自分の胸の高さまで持ち上げる。手のひらを上に向かせると、丸まった指と、真っ赤に腫れた皮膚やいくつもの破れた水疱の跡が目に入る。想像以上にひどい患部に思わず顔をしかめる。


「……昨日のか」
「えっ、は……え?!違います!駅で携帯が爆発したんです!それでこんなことに」


 の腕に力が入る。……駅?夜のことじゃないのか?しかも携帯が爆発……。


「IoTテロか?!」
「そう、それです!」


「ニュース見ました?すごい被害だったみたいですよ!」「……」どっと肩の力が抜ける。いや安堵している場合ではないのだが。IoTテロの被害件数は相当だったことは確かだが、それにしても、相変わらず運が悪いな……。手をゆっくり離すと、一番楽なのだろう、彼女は指を丸めたまま自分の胸の前で爪先同士を合わせた。


「びっくりしましたよー。おかげで今連絡手段ないんです。ポアロへの電話も蘭ちゃんの携帯を借りてしましたし。今日バイトが終わったら作りに行くつもりです」
「…そんな手で何言ってるんだ。バイトはいいから早く作りに……」


 言いながら、の手元を見下ろす。丸まったままの両手に眉をひそめる。


「手を動かすのが難しいなら僕も一緒に行くよ。予定がないならここで時間を潰すといい。あとで飲み物を持ってくるから」


 踵を返しテーブルへ移動する。放り投げたエプロンを畳み手袋と一緒に隅にやりイスを引くと、小走りで駆け寄ってきたが慌てたように声を上げる。


「大げさですよー!安室さんこそ腕、絶対痛いでしょう。代わるので休んでください!」
「君は梓さんの厚意を無下にするのか?いいから大人しくしていろ」


 埒が明かないので強めに言うとさすがに効いたらしく苦笑いで固まる。それから、しぶしぶ頷き、「つらかったらいつでも代わります…」と答える。ああ、と形だけ返す。
 イスに座ったのを確認し控え室をあとにする。まっすぐ店内へ戻ると、カウンターの内側で作業の続きをしていた梓さんが、あ、と顔を上げた。


ちゃん大丈夫でした?」
「はい。あとで携帯ショップに連れて行くので、自分が上がる時間まで控え室にいさせていいですか?」
「もちろん、いいですよ。…安室さんも腕怪我してるんですか?」
「ただのかすり傷なので。心配いりませんよ」
「ならいいんですけど……」


 梓さんはそう言ったあとも止めた手を動かそうとはしなかった。……なんだ?もう一度彼女に視線を向けると、嬉しそうに口角を上げる顔と合う。


「安室さんとちゃん、仲直りできたんですね。よかったです」


 え、と下手な愛想笑いを浮かべる。ポアロの二人に気を遣わせた覚えはないが、と逡巡し、すぐさま否定する。……一昨日、やったな。
 をあからさまに無視する態度をとった。我ながら子どもみたいなことをした自覚がある。思い返すと恥ずかしくて居た堪れず、口を手で覆う。自分の浅はかさに溜め息が漏れた。


「ご迷惑をおかけしました」
「いえ。二人とも元通りに戻ってよかったです」


 ですよね、と梓さんがレジ前に立つマスターへ同意を求めると、彼も笑顔で頷く。さすがに苦笑いを禁じ得ない。すみませんでした、と肩をすくめて謝罪の言葉を口にする。

 への飲み物はアイスのカフェラテにした。ストローを差したグラスを持って従業員用の出入り口から外に出る。
 すぐに、控え室に繋がる無人の通路で立ち止まる。はたして僕たちは、元通りに戻るべきなのだろうか。先程掴んだ細い手首の感触はまだ手に残っている。切り捨てることが正しいのだと、やっとの思いで手離したはずがいつも通りのを目の前にあっけなく揺らいでいる。こんな自分じゃいけないとわかっているのに。すべてを隠し囲い込んで守ろうとした、真逆の覚悟だって貫き通せなかった己の弱さが本当に嫌いだった。


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