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 汚れた肩口を見下ろす。だから君のことは諦めたのに。


 車の前で立ち尽くすの後ろ姿を見つけた瞬間、一番に思い浮かんだことは「知らなくてよかった」だった。がエッジオブオーシャンに避難していた。知らぬ間に危機に瀕していた。そのことを自分は知らなくてよかったと、心底思ったのだ。
 江戸川コナンの協力で今回の事件はすべて解決した。国際会議場の大屋根の上で別れてからの行方はわからないが、避難している毛利一家と合流しに向かったのかもしれない。事件解決のために彼がしたことと併せれば、自身のことは元より、僕の作為についても伏せるだろうことが推測できた。何にせよ、彼ならば上手くやるだろうという信頼があった。

 はなぜ避難対象になったのだろう。今日の彼女の行動範囲が運悪く警視庁周辺だったのだろうか。自宅もバイト先も対象地域ではないため、正直ここには来ていないと思っていた。それだけでも十分驚かされたというのに、燃える車に上着を投げ入れたと思ったら手を伸ばしたからさらに肝が冷えた。すんでのところで制止は叶ったが、僕がいなかったらどうするつもりだったのか。
 君は恐怖心がある人間だ。恐れることを目の前に無茶ができる子ではないはずなのに。返ってきた答えに、少なくとも喜びの感情は湧かなかった。僕のことなんか助けなくていい。
 咄嗟に止めたため頭が回っていなかった。直前まで傷口を押さえていた手での肩を掴んでしまったのだ。気付いてすぐに離したものの、彼女の服に自分の血がべっとりとついてしまった。今日一番の後悔に襲われ、しばらく動くことができなかった。――が汚れる。こんな目に、絶対に遭わせたくなかった。自分がどんなに悪いことをしたとしても、君には綺麗なままでいてほしかった。


「名前は…」


 が嗚咽を漏らして泣く。汚れた手では頭を撫でることも涙を拭うことも許されない。こんな自分はこの子に触れる資格などない。ずっと前からわかっていたのに、ずっと離れ難かった。


…まだ伝わっていないのか……」


 俯くの背筋が丸まる。依然涙を流しながらしゃくり上げ肩を跳ねさせている。
 本当に、がここにいると知らなくてよかった。知っていたら、のために命を張ってしまっていた。確信できる。自分の中で彼女がどういう存在なのか、それが己に課した使命とどう競合するのか、嫌というほどわかっていた。だから別れを告げた。
 にかまける時間は本来僕にはない。江戸川コナンを焚きつけることで彼がに対して取り得る行動は容易に予想がついた。から僕の情報を聞き出そうとする。僕へ探りを入れさせる。の存在を、抑止力とする。彼女が僕の弱点であると重々承知している江戸川コナンならば必ずそうするだろう。僕が彼の立場なら同じことをする。現に、似たような手口で彼をこの件に引き込んだのだ。彼なら、自分や自分の親しい人間を侵害しようとする僕に対し、僕の致命的な隠し事を暴露することが対抗手段になると真っ先に思いつくだろう。それを盾に行動を制限されるわけにはいかなかった。
 僕のことを知る江戸川コナンを利用する以上、とはこのままではいられない。誰かに暴かれるくらいなら自分から終わりを告げたかった。

 僕は命に代えてでも己の使命を全うする。どんな状況であろうとも、君なんか、と切り捨てなければいけない。


「頼むから早く諦めてくれ。……僕のことなんか見限って、何も知らず幸せになってくれ」


 諦めないといけないのはいつだって僕の方だけれど。





 次第に落ち着きを取り戻し、鼻水を啜りながら顔を上げたを「言いたいことは明日全部聞く」と丸め込んで帰らせた。そのうち手配した部下や消防が到着するだろう。ここで起きた一切はカプセルの墜落と何ら関係のないこととして処理しなければならなかった。
 何より、この場で何かを話すには今の自分に自信がなかった。ここに至るまでの緊張感と事態収束の安堵とで、少なからずまだ興奮状態にあるだろう。良くも悪くも言うべきでないことが口をついてしまいそうで、必死に飲み込んだ。は、血で汚れた肩口をハンカチで覆い隠すとショルダーバッグの紐で押さえ、こうすれば大丈夫だと言って、最後ははにかむような笑みを浮かべて去っていった。
 この期に及んでそんな顔をしないでほしかった。きっと同じようには返せていなかっただろう。自分にはもうそんな資格はない。

 一人になり、眉間に手の甲を当て目を閉じる。彼女とは明日ちゃんと時間を設けて話したい。こんな非常事態の忙しない夜ではなく、明るい時間に落ち着いた心と姿勢で向き合いたい。それが最後になるという、心構えはできている。
 君を傷つける言葉をたくさん吐いた。誰にも邪魔されず自分こそが引導を渡したかった。僕のしたことはただ、君の信頼に対する裏切りだ。君がどうなっても、僕を見限ってもいいと、手放した。そうしてでも優先しなければならないことがあった。

 君のことは、もういい。君がこの先どうなろうと構わない。傷ついてもいい。泣いてもいい。僕は君のことを気に留めない。可哀想な子だった。早く見捨ててあげるべきだった。ずっと騙して申し訳なかったと思う。離れる理由なんて山ほどあるのに、たった一つのためにここまで長引かせてしまった。

 顔を上げる。遠くの喧騒が耳に届く。気もやれない明瞭な思考のまま、建物で隠れたカジノタワーの方角を見つめる。自然と口が開き、肺一杯に吸う。


 ――君に。


 君にそばにいてほしかった。少しも疑うことなく心から信じられる君の言葉に安心していたかった。いつもじゃなくていい。けれどずっと、君に一番ふさわしい人間として向き合っていたかった。そうして君と、…………。

 心臓が苦しくなってきたことを自覚し、止めていた息を吐き出す。同時に肩の力が抜け、そっと目を伏せる。
 ……だが、諦める。君のことは諦める。


さんだと思ってたんだけど、安室さんって、彼女いるの?」


 数十分前の問いかけだ。コナンくんには前にポアロでも似たような質問をされた。いずれも肯定できる未来はない。捨てて、もう片方を選び取ったのだ。

 僕とが他人からそう見られていることに、今だって悪い気は少しもしないけれど。


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