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 目的の高層ビルに着くまで人っ子一人見当たらなかった。本当に勘違いだったのか、と安心と疑念が交互に浮き上がる胸中のまま駆けていくと、爆破事件のあった国際会議場越しに問題のビルが見えてくる。
 展望デッキから見たときは気付かなかったけれど、どうやら完成していない、建設途中の建物のようだった。暗くてはっきりしないながらも、建設用具や剥き出しの骨組みがあちこちに見える。目を凝らしても火事の名残はない。さっき見たときは、炎の塊が階全体を燃やしているように見えて、こんな早く鎮火できる規模には思えなかったんだけどなあ…。いよいよ自分の目への信頼が失われていく中、立ち入り禁止になっているボロボロの国際会議場を横目に、ようやくビルの一階が見えるところまで来る。


「?! 車?!」


 一番に目に入ったのは、ビルと国際会議場の間のアスファルトで燃えている一台の車だった。破損が酷く、もはや原型を留めていない。勢いよくどこかに衝突したかのようなボンネットの壊れ具合に嫌な予感がよぎる。一瞬たじろぎ、それから駆け寄る。もし中に人がいたら。最悪な光景を想像してしまう。
 前方の座席を確認する。車の頭の部分が潰れた影響で運転席や助手席もぐちゃぐちゃに歪んでいるため中がよく見えない。燃える車の中に、人はいない気がする。でも奥に人影が、いや、あれは座席のシート、だよね……。
 どうしよう…。一度離れ、車全体を見回そうと比較的原型が残る背面に回る。ふと、車のそばに落ちていた何かが目に入る。

 それは白いナンバープレートだった。歪んで傷がついているけれど、印字された文字は読める。


 新宿330、と、7310。


 その文字列が記憶と結びついた瞬間、全身から一斉に血の気が引いた。ぞわっと総毛立つ。湧き上がった震えに、吐き出しそうになり咄嗟に手で押さえる。
 ――安室さんの車。安室さんが乗っている車。
 そう思えば、大破した白いボディは見慣れたRX7に似ている。弾かれたように、再度運転席側に回り中を覗く。何もかもぐちゃぐちゃだ。無人に見えたけれど、いると思えばいるように見える。あの、火の中に見える黒い影はそうなんじゃないか。……黒い影。途端、煙が口の中に侵入し咳き込む。震えが止まらない。汗が背中や額から吹き出している。今まさに咳をしているにも関わらず、自分が呼吸をしているのか、自信がなかった。

 依然火の手は収まることなく車体を燃やしている。こんな中にいたら本当に、本当にだめだ。安室さん、いたら、まだ助かるかもしれない。確かめないと。わたしが助けないと。
 じわっと涙が浮かぶ。拭う間もなくショルダーバッグを地面に放り、上着を脱ぐ。外に飛び出したサイドドアに上着を引っ掛け、持ち手にしてドアを引っ剥がすつもりだった。
 は、は、と短く肩が上下している。助ける。絶対わたしが助ける。なるべく近づき狙いを定め、引っ張りやすそうな窓のフレーム部分に上着を引っ掛けた。すぐに掴むべく手を伸ばす。


「――おい!」
「っ?!」


 突然、後ろから左肩を強く掴まれた。そのまま強引に引っ張られ車から引き離される。
 声も出ないまま振り返った先、肩を掴んだのは、安室さんだった。


「あむ……」


 顔にまた生傷を作りどう見てもボロボロの安室さんは、しかし確かに目の前で息をしていた。車の中に閉じ込められてはいなかった。無事だった。安室さんがいなくなるという、最悪の事態は起きていなかった。その事実に、かっと眼球が熱くなる。堪えていた涙がぽろっと一粒こぼれる。よかった。声にする前に、目の前の安室さんが低い声で問う。


「僕が止めなかったら何をするつもりだった…?死にたいのか?」


 肩を掴む右手に力が入る。わたしは、このときになって初めて、安室さんが今どんな顔をしているのかを認識した。安室さんは眉間に皺を寄せ、声音よりよほど、怒りと苦しみに歪んでいたのだ。見たことのない表情に身体がすくむ。


「ち、ちが……安室さん、閉じ込められてるかもって……助けたくて…」
「馬鹿なことをするな。仮にそうだったとして、この状況で君なんかに助けられるはずないだろう。……そんなこともわからないのか」


 たしなめる台詞、にもかかわらず、安室さんは決して失望したわけではなさそうだった。一層苦しそうにしかめた表情の心理は、一体なんだろう。どうしてだか胸が痛くなる。
 安室さんの伏せた目から逸らし、手の甲で涙を拭う。わたしの肩を掴んでいないほうの腕へ目を落とすと、左腕はだらんと下がり、力が入っていないようだった。不自然な姿勢に疑問に思うと同時に、彼の手の甲が、黒く濡れていることに気付く。
 なんだろう?炎によって鈍く照らされる手元へ目を凝らす。それから、辿るように肩口へ目線を上げていく。ジャケットの二の腕の部分が破れている。――え。


「安室さん、うで、怪我…!」
「っ!」


 わたしがそこへ手を伸ばそうとすると、安室さんは弾かれたように身を引いた。わたしの肩を掴んでいた右手も勢いよく離し、一歩後ずさる。それから、瞠目したまま自分の手のひらを見下ろす。信じがたいものを見るような表情が、やがてまた歪む。
 安室さんが、泣き出しそうに見えた。


「すまない……服を汚した」
「え?あ、全然、わたしは大丈夫です……」


 堪えるような彼の視線の先を辿って自分の左肩口へ首を曲げると、確かにブラウスに黒く見える血がついていた。彼へ視線を移すと右手が汚れていたから、左腕の傷口を押さえていたのだろうことがうかがえる。何も変なことはない。今言った返事にも、間違いはなかった。
 この暗さの中、安室さんの顔がどんどん青白くなっていくように目に映る。よっぽど痛いんだ。傷口の深さはわからないけれど、ジャケットの破れ具合や手の甲にまで到達する血液の量が、間違いなく軽傷ではないことを物語っている。どう見ても、このままにしてはいけない傷だ。脳内に、失血死という言葉が浮かび上がる。
 安堵したのも束の間、安室さんから危険が完全に去ったわけじゃないことを認識する。おそるおまそる息を吸う。喉が震える。
 これに比べたら、些細な悩みだった。安室さんがしんでしまう恐怖に比べたら、ここに来るまで考えていた悲しみとか、疑念とか、喪失感なんてものは、大したことじゃなかったんだ。そう、そうだ。わたしが勝手に傷ついていただけなんだ。


「安室さん、顔色悪いですよ……血、輸血いるかも…」
「……、」


 覚束ない足取りで一歩、歩み寄る。戸惑うような安室さんの声が聞こえる。安室さんは生きてここにいる。だから、いいんだ、これ以上はない。いいと思わないといけない。本当は。


「血液型、何ですか…?わたしと同じかな…」
「……」


 ちょっと秘密があっただけ。わたしが、教えてもらえなかっただけ。


「名前は……」


 視界はもう、何も見えてはいなかった。ボロッと涙がこぼれる。目の奥が真っ赤に熱くて次から次へと水滴が流れてくる。「うっ…く…」嗚咽を堪えることすら困難で、ひくっと肩が跳ねてしまう。なんとか目を開くものの顔は上げられず、手の甲で拭うことしかできない。昨日散々泣いたのにまだ泣き足りない。弱い奴。そんなんだからだめなんだ。安室さんがいなくなることに比べたら、何もかも、気にすることじゃないでしょうよ。安室さんがわたしを嫌おうが一緒にいられなかろうが、隠し事をしていようが、そんなことで泣くなんておこがましい。こんな自分勝手な奴を前に、安室さんは、傷口を押さえて立ち止まったまま、どんな顔をしているだろう。


…まだ伝わっていないのか……」


 その声は、呆れ、後悔、諦念、どんな色の感情なのか、ぎゅっと目を瞑ったわたしにはわからなかった。


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