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 カジノタワー最上階が突如としてパニックに陥る。我先にとエレベーターに押し寄せる人たちの波に押し潰されないよう、わたしたちは離れた位置にあるブラックジャックテーブルの近くで様子をうかがっていた。もともと早くに到着していたため、エレベーターから遠い位置にいたのだ。きっと降りられるのは最後のほうだろう。非常階段も長蛇の列だ。それに、高さがかなりあるので一階まで降りるのに相当時間がかかるだろう。エレベーターに乗るのとどちらが早いか、判断がつかなかった。
 人混みに混ざるようになると、毛利さんが蘭ちゃんや妃先生の肩を抱き寄せる。園子ちゃんとわたしもはぐれないようそばに寄る。カプセルが落ちるまでどれくらい時間が残っているんだろう。エッジオブオーシャンから出る時間はあるんだろうか。ないなら、ここにいても同じなんじゃないか。でももしカジノタワーに落ちたら、根本に当たってタワーが折れたりしたら。想像して身震いしてしまう。周囲の混乱にはひどく共感できた。


「突っ立ってんじゃねえ!どけっ!!」
「っ?!」


 後ろにいた人に肩を引っ張られ後ろによろける。それを皮切りに、他の後ろの人たちにもどんどん追いやられ、どんどん後ろに流されてしまう。蘭ちゃんたちが遠ざかる。「えっ、さ――」気付いた蘭ちゃんが振り返るも、彼女たちの元に戻るのは不可能だとわかり、ほとんど反射的に「大丈夫だから!」と手を挙げていた。
 無言でぐいぐいと前に割り込まれていくうちに、ついに一番後ろまで来ると、誰かの足に引っかかり転倒してしまう。両手を庇ってベシャッと倒れ込んだ床は、ワインレッドのカーペットが敷かれており思っていたほど痛くはなかった。
 すぐに膝で立ち上がると、人混みの外に出ていた。さっきまで自分も一部になっていた人の集団を目の前に途方にくれてしまう。ついに一人になった心細さに、すぐに蘭ちゃんたちのところに戻りたい気持ちが湧くけれど、降りたい気持ちはみんな同じのため気が引けた。それに、前に割り込むのをよしとしない状況だから、到底たどり着けない気がする。ここにいたら、どう頑張っても降りるのは最後になるだろう。いっそ非常階段に並ぼうか、とそちらを横目に、誰もいなくなった窓辺に歩み寄る。エッジオブオーシャン全体が危険になった今、外の様子が気になったのだ。
 眼下では多くの大型人員輸送車と、それに群がる人々でごった返していた。警察と思しき人々が持ち場に留まって誘導しているのが見える。こんな非常事態でも、人のために動けるの、本当にすごい。今ここにカプセルが落ちてきたら、下手したら自分の命はないのに。
 警察の人たちの懸命で崇高な精神を想像すると、次第にじわりと涙が浮かんだ。誰にも見えないよう窓に向いたまま、指先で滲んだ目元を拭う。こんな場面で、わたしに何ができるだろう。警察の人たちの迷惑にならないよう速やかに避難するくらいしか思いつかないよ。

 警察官の姿をじっと見下ろしていると、ふと、視界の隅で違和感を覚える。えっ、と顔を上げる。
 遠く、右手の方角で、火の手が上がっていた。


「え…?!」


 最初、国際会議場が燃えているのかと思った。ニュースで見た爆発の映像がフラッシュバックする。けれど今起きているのはもっと小規模で、しかもどうやら国際会議場の向こう側に建つ高層ビルで起きているようだった。遠くてはっきりとは見えないけれど、結構高い階で燃えている。国際会議場は避難場所になっていないため近くに人気がないのか、誰も火事に気付いてない。どうしよう、早く伝えないと――。

 被害の状況を見定めようと目を凝らすと、突如、上空で花火が上がった。ちょうど見ていたビルの上、記憶にある打ち上げ花火より低く近い位置で咲いた見事な花に目を奪われる。

 次の瞬間、ガンッと地面に大きな衝撃が走った。最上階で感じてはいけない衝撃に、一瞬で心臓が宙に浮く。最悪の想像が頭をよぎる。「わあああ!!」「きゃあああ!!」エレベーターのほうにいた人たちの悲鳴と共にうずくまる。展望台が揺れる。外から、バチンバチンと、大きな音が響く。硬い何かが地面を打つ破砕音が聞こえる。一生終わらない、いやここで死ぬ、と思わせる、絶望の時間だった。

 きっと数秒程度ではあったのだろう。生きた心地のしない時間はやがて終わりを告げ、最上階は沈黙に包まれる。誰かがおもむろに立ち上がり、同伴者に無事を問う。次々とそんな声が聞こえ始め、自然と全員が安堵の息を漏らしただろう。わたしも顔を上げ、腰が抜け足に力が入らない体勢のまま、窓の下を覗き込んだ。同じくうずくまっている避難住民へ、警察の人たちが拡声器で案内している。どうやら誘導が再開されるようだ。はあ、と深く息を吐く。
 それから思い出し、国際会議場のほうを見ると、なぜか火は消えていた。どれだけ目を凝らしても、さっきまで見えていた赤やオレンジ色の炎は跡形もない。見間違い?まさか、あんなはっきり見えていたのに。それにあの花火は何だったんだ?開業前にエッジオブオーシャンで花火が上がるわけがない。しかもこんな非常事態だ。一体何のために……。
 あの建物に、誰かがいるのかもしれない。もしかしたら、オープンに合わせて用意していた花火を間違えて打ち上げてしまって、その拍子に建物が燃えてしまって、今は消火されたのかも。そんな無理矢理な推理をし、真相を知るため現場に行こうと思い至る。振り返ると、エレベーターは再稼働していた。危機が過ぎ去ったためか、みんな落ち着きを取り戻しスムーズに避難している。わたしもそのうち降りられるだろう。思い、蘭ちゃんたちの姿を探すも、なぜか見つからなかった。





 結局、一階に降りても蘭ちゃんたちを見つけることはできなかった。連絡手段がないので今いる場所を聞くこともできない。キョロキョロと辺りを見回しながら外に出、早々に諦めると、一目散に駆け出した。輸送車に並ぶ避難者の長蛇の列とそれを誘導する警察官を尻目にカジノタワーから離れていく。もちろん、高層ビルに向かうのだ。
 今地上から国際会議場の方向を見ても何も見えない。一応、エレベーターに乗る前に誘導の警察の人に聞いてみたけれど、国際会議場付近は避難場所になっていないため無人だろうと言われた。
 やっぱり火事はわたしの見間違いかも。でも胸騒ぎがおさまらない。だってエッジオブオーシャンが避難場所になっているタイミングで起きるなんて、偶然にも程があるだろう。絶対に誰かいる。そんな確信を持って、わたしは走っていた。


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